静かな昆虫的世界


初出:OVA『エイリアン9』第1巻ライナー、バンダイビジュアル、2001年


ぼくが『エイリアン9』を知ったのは1999年の秋のことだ。マンガ誌に限らずぼくはあまり雑誌をチェックしないので、友人から教えられるまでまったくこの作品の存在を知らなかった。しかし友人が開いたページに大きな衝撃を受け、ぼくもまたその場で『エイリアン9』の伝道者となった。友人の美術家にコピーを送りつけたり、新刊紹介を新聞の書評欄に忍び込ませたり、あげくの果てには、無理を言ってぼく自身の本のカットまでお願いしてしまった。

その『エイリアン9』がアニメ化するという。そこであらためてコミックスを読み返して思ったのだが、これはとても複雑な印象を与える作品だ。富沢氏が描く登場人物は、何か安直な感情移入を阻むところがある。しかもその印象は、物語が進むとともにどんどん強くなっていく。第1巻ではまだ、女の子たちの内面が描かれており、家族も登場する。しかし第2巻ではその種の描写は急速に影を潜め、第3巻になると、女の子同士が戦ったり、エイリアンがクラスメートをつぎつぎと襲ったり、けっこう派手でドラマティックな展開を見せるにもかかわらず、そのすべてが昆虫の群れを見るような離れた視点で描かれている。確かにゆりやくみはいろいろ苦悩しているのだが、そんな内面はまったく現実の過酷さについていっていない。第3巻のめくるめく戦闘場面のなかでは、もはや、誰がゆりで誰がくみで誰がかすみなのかは、けっこうどうでもよくなってしまう。

とはいえ『エイリアン9』は残酷な物語なのでもない。全体の印象は、言ってみれば「静か」というのに尽きる。残酷というのは、結局のところ人間的で哺乳類的な感情だ。虫は虫を殺すが、それは残酷でも温情あふれる行為でもなく、ただ神経の興奮に導かれて殺すだけである。『エイリアン9』の物語は、確かに女の子が主人公ではあるが、一貫してそんな生物観で進められているように思う。ボウグが人間と「共生」するという設定が、まずその前提のうえで作られている。だから、話が進むごとに心の描写が少なくなり、女の子たちへの感情移入が難しくなるのも、また当然のことかもしれない。その印象がもっとも極まるのは、第23話の最後、ゆりのボウグがくみの体を「スパン、スパ、スパ、スパン」という乾いた音とともに切り刻む場面だろう。そこには、読者の感情を誘う集中線もなければ、また流れる血や叫び声もない。ただ、虫が虫を分解するように、人間が人間を分解する即物的な世界が描かれている。ぼくはこの場面を最初に見たときに震撼した。こんなふうに手足の切断を想像できる作家は、なかなかいない。

ぼくは二度ほど富沢氏にお会いしたことがある。そのとき直にそんな感想を伝えたら、確か彼は海洋生物の話をしてくれた。何でも富沢氏の故郷は海の近くであり、暇なときにざくざくと魚や貝やイソギンチャクを取っていたらしい(「ざくざく」というのはぼくの誇張かもしれない)。そしてまた、陸上に打ち上げられ腐った生物を見ることも多かったらしい。この作品に登場するエイリアンの生態やデザインは、そのときの経験が反映されているように思う、と富沢氏は語ってくれた。おそらく彼が萌え系(?)の可愛い女の子を描くのも、変わったデザインの昆虫やクラゲに惹かれるようなもので、単純に記号でありフォルムでしかないのだろう。同じ世界観や人間観は、新作『ミルククローゼット』にもしっかりと受け継がれている。

その『エイリアン9』のアニメ化がいまここにある。実はぼくはまだ現物を見ていないのだが、以上のような独特の静かな昆虫的世界がどのようにアニメ化されたのか、擬音はどう処理されたのか、集中線の欠如はどんな風にセルに置き換えられたのか、大きな期待をもって完成を心待ちにしている。そして何よりも、ぼくがこのシリーズでもっとも楽しみにしているのは、さきほども触れたあの「スパン、スパ、スパ、スパン」の場面の映像化である。あの静止しているが速度感のある(としか言いようがない)動きの表現をどのようにアニメに変えるのか、それはアニメーターにとっても大きな挑戦に違いない。

2001.8.31公開




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