存在論的、広告的、キャラクター的


初出:『広告』2000年3+4月号、博報堂


そもそも、われわれがいま生きているのは複製技術の時代です。何でもコピーができてしまう。ベンヤミンが1936年に書いた『複製技術の時代における芸術作品』という有名な論文がありますが、そこでベンヤミンが取り上げたのは「アウラの消失」という問題だった。アウラ、つまりオーラです。1個しかないオリジナルのものにはオーラがある。たとえば油絵の絵画にはオーラがある。それに対して、コピーされたものにはオーラがない。絵画を印刷するとオーラがなくなる、という話ですね。オーラがなくなると、すべてがシミュラークルとして消費される。それが複製技術の時代であると。「シミュラークル」という言葉をまだベンヤミンは使っていませんが、おおむねこのようなことを彼は主張したわけです。

それで僕の考えでは、キャラクター文化の謎は、このベンヤミンの指摘と深く関係している。というのも、「キャラ立ち」とは、「複製技術時代のオーラ」と言えるものだからです。目の前の人間には、独得のオーラがある。人間は複製不可能なものだから。それに対して、イラストのキャラクターはいくらでも複製可能だから、これはオーラがない。ところが、「キャラが立って」くると、ひとはその複製からオーラを感じるようになってくしまう。

例えば最近の立っているキャラとしては、PSソフト「どこでもいっしょ」のトロでしょうか。トロには本当はオーラなどあるわけがない。売り出されるどのCDにも同じトロが入っていて、いくらでもコピーできるし、あっちにもこっちにもトロがいるわけだから。「このトロが」と言ったところで、それはニセモノでしかない。むろん、それぞれのトロは、飼主が教える言葉に応じて多少は違う会話をするようにはなるけれど、会話や絵日記のバリエーションだって、プログラムの範囲内でしかないですからね。全部決まり事なんですよ。ところが、消費者はそういうことを百も承知なのに、あえてそのトロに自分で名前をつけて、感情移入して、そこに独特のオーラを宿らせていくわけです。複製可能なものを複製不可能にすること、コピーをコピーのままでオリジナルにすること、これがキャラクター文化の核にある欲望だと思います。


複製技術の時代が到来するまでは、世界はオリジナルなものに満ちていたわけです。オリジナルからはオーラがブンブン来てますから、それで安心して人は生きていけた。けれどいまや、世界はコピーだらけになってしまった。シミュラークルだらけになった。そういう認識が一気に広まったのは、日本では1980年代ですね。もはやすべてがニセモノなのだから、もう本物は探さないでいいんだ、ということになった。しかし、逆に1990年代は、そんなアイロニカルな態度では人は生きていけないということが、いろいろな社会矛盾を通して明らかになった時代だと思うんです。だから、ひとは、トロがコピーに過ぎないとわかっていても、それでも彼(?)にオーラを持たせなくてはならない。そういう切実な必要が、キャラクター文化の基礎にはある。

トロ自身にはオーラはありません。あれは単なるイラスト、プログラムでしかない。そしてどんなに作り手が手書きっぽくイラストを描いたとしても、それが複製可能である以上、オーラは宿ることがない。でもそれが単なるイラストではなく「キャラ」になるというのは、その生産者が与えられないオーラを、消費者のがわが強引に与えるということです。つまり、あっちにもこっちにも何十万というトロがいるのに、でも「俺のトロは違うんだ」とあえて言うということですね。そして、その種の感情移入はもはや、「どこでもいっしょ」に限らず、日常のコミュニケーションのなかで無視できない大きさをしめるようになっているように思います。ここで重要なのは、トロにオーラがないということを知っているのに、あえてそこにオーラを見出すということです。それは単なる勘違いや現実逃避じゃない。この「あえて」がないと、コピーばかりの砂漠では生きていけないんですよ。

ベンヤミンの話に戻りましょう。彼が「複製技術」と名付けたのは、実は、映画や蓄音機、つまりイメージの複製技術です。シンボル(言葉)というのは、もっと前から複製しされていた。印刷機がそうですね。でも、グーテンベルグの出現で言葉のオーラが消えたと言うひとはいない。じゃあ、どうして、イメージの複製が問題になったのか。それは実は、オーラの有無をめぐって、かつてはシンボルとイメージのあいだには厳密な境界があったからです。言葉の世界は原理的に複製可能です。

例えば「木」という言葉は誰にでも使えるわけで、そこにオーラはない。対してイメージの世界、知覚できるものの世界は複製不可能であって、オーラがある。「木」という言葉にはオーラはないけど、いま目の前にあって、手で触れる一本の木にはオーラがあるわけです。こういう境界が、19世紀までは明確なものとしてあった。ところが、19世紀の末に映画や蓄音機が発明され、そのあとも複製技術がますます増えて、イメージはどんどん複製可能なものになってしまった。そしてその結果、オーラがあるものと、オーラがないものの境界が崩れてしまった。「シミュラークルの全面化」と言われるこの変化は、世紀単位の大きな変化として、私たちの社会を強く規定している。だからこそ、かつてポストモダニストたちは、もはや今後は、オリジナルのない、すべてが交換可能な砂漠のような世界で生きていくしかないのだ、と説いたのでした。

しかし実際には、すべてがオーラのない等価なものになったときにこそ、人はそこに自分なりの価値をつけなければ生きていけない。もはやオリジナルとコピーの境が壊れてしまったからこそ、目の前のシミュラークルのなかに、強引に「オリジナルっぽいもの」を見つけ、自分なりの感情の段差をつけていくしかない。だから、いまの私たちが直面しているのは、例えばつぎのような問題です。目の前に、手で触れられる肉親(現実)、テレビのなかのタレント(遠い現実)、コンピュータ画面のなかのゲームのキャラクター(虚構)がいたとして、その三者にどのような感情移入の差異をつけるのか。このような問題は、現実と虚構の境界がはっきりしていた時代にはありえなかった。そしてそのとき、ひとによっては、キャラクターが第一で、肉親は最後に来るひともいるのかもしれないわけです。それはもう、現実も虚構もすべて同じ平面のうえにおいて、別の基準で扱う別の世界観だと思います。そしてそのなかで、「キャラが立ってる」というのは、いわば、感情移入の順位を表す言葉なわけですね。家族でも「キャラが立って」いなければ、コンピュータのプログラムよりも感情移入度で劣位に来てしまう。つまりキャラクターとは、シミュラークルばかりの世界に感情移入のポイントを作るための、一種のフックなのです。トロやキティちゃんを手がかりにして、ひとははじめて世界と感情的な関係をもつことができる。


したがって、キャラクターとは、いわば「オーラがあるコピー」です。たとえばトロに萌えている人は、自分のこのトロだけは、オーラがあるオリジナルだと感じているわけですね。確か2週間ぐらいで最初のトロはいなくなるはずですが、そのあとも、あいつはいまごろどうしてるんだろう、どこにいるんだろう、とかいった喪失感が残るんですよ。喪失感があるということは、交換可能じゃないということです。トロはコピーなのに、「このトロ」は交換不可能になってしまっている。キャラ萌えとは、こういう風に、交換可能な対象を交換不可能にする感情の動きのことです。そしてこれは、結局、自分の飼っている犬が、ほかの犬と違って見えるのと同じ基本的には同じメカニズムなんですよ。犬は生きていて、トロは生きていないという違いはありますけど。

交換可能なものと交換不可能なものはバシッと分かれているのだ、という考え方があります。例えば人間や動物は生きているが、ゲームのキャラはニセモノじゃないかというわけです。でも、それはそんなに確かな話ではない。もしかしたら人間は、そもそも、オリジナルかコピーかという軸ではなく、単純に感情移入の度合いだけで生きているのかもしれない。そしてポストモダンとは、そういう人間のあり方が前面に出てきた世界なのかもしれない。確かに、肉親は死んだら生き返らない。でもトロだって、いちど旅に出たらもう戻らない。新聞の社会面などで、少年犯罪が起きるたびに、「いまの子どもたちは現実をゲームみたいに捉え云々」という記事が出るじゃないですか。たぶんそれは一面では正しいのだけど、そこでむしろ大事なのは、彼らにとって「現実がゲームみたいに交換可能だと思われている」だけでなくて、「ゲームもまた現実みたいに交換不可能だと思われている」ことです。繰り返しますが、僕の見るかぎりこの国では、交換可能なものと交換不可能なものはそんなにスパッとは分かれていない。それらは混じり合って、感情移入のグラデーションで並べられている。

ヨーロッパはおそらく、生きているものと死んでいるものをくっきり峻別する傾向が強い。交換可能なもの、交換不可能なものを分ける哲学が発達したのも、例えばよく言われるように、臓器移植に比較的抵抗がないのも、そのせいなんでしょう。他方、キャラ立ちの国である日本の場合は、死んだということは頭ではわかっていても、感情的な固着が残って、臓器移植には根強い抵抗がある。それは基本的には、トロが交換可能だと知ってはいても、何か交換不可能な喪失感を感じるのと同じメカニズムだと思います。感情移入の世界では、グラデーションの推移で生も死も並べられてしまう。僕の好きな哲学者、ジャック・デリダの言葉を借りれば「幽霊」です。キャラクターは、生きているのか死んでいるのかよく分からない。そういう幽霊のようなものが、この国にはいっぱい漂っている。


「幽霊」という言葉からさらに連想を広げれば、いまわれわれが生きている社会は、実は人間にあまり出会わない世界ですね。たとえばコンビニに行くでしょう。レジで店員と向き合って、人間と会話しているかといったら、実はそうじゃないんじゃないか。あれはむしろロールプレイングゲームじゃないか。商品をもってレジに行き、Aボタンを押すと、相手が料金を言ってくる。そこでさらにAボタンを押すと、ゴールドが減ってアイテムがゲットできる。そんな感じで動いている。あるいは、満員電車で50分立っていたからヘルスポイントが50ポイント落ちたんで、とりあえず売店でドリンク買って20ポイント上げておくとか(笑)。行動パターンの多くがそういう感じになっている。少なくとも、そういうふうに言われると、多くのひとがうなずく世界になっている。

それで、そういう世界になると、実際はナマの人間を相手にしていても、「人間」というより「キャラ」として相手を見たほうが効率的だし、説得力もあるということになってくるでしょう。コンビニのレジで相手の視線を気にしても、意味がないですからね。つまり、ロールプレイングゲームのキャラクターみたいに振る舞うのがいちばん効率よく世間を渡れるような、そういう世の中になってきたわけです。これは、人々のコミュニケーションそのものが変わったというより、自分で自分のコミュニケーションを捉えるときのモデルが変わったということですね。人格モデルよりも、キャラモデルになってきた。

これは言い替えれば、基本的なプロトコルがきわめて明確になり、書類を提出するときに書式を整えていなかったら絶対に受理されないような、そんな世界になってきたということ。これも1980年代から引き続く変化で、むかしは「マニュアル化」と言われた現象ですね。いまだと「ゲーム化」と言ったほうがいい。これは僕的には、悪くない変化だと思います。しかしこうなってくると、人々はますますキャラのように振る舞うわけで、だんだん内面にも影響が出てくる。例えば、若いカップルが話しているのを横から聞いていると、ときどき「おまえらゲームみたいな会話してない?」と突っ込みたくなるんだけど、あれは実は正しいわけです。モデルが変わったんだから、恋愛もロールプレイングゲームみたいに進めたほうが上手くいく。人格形成のモデルがゲームしかなく、愛情のモデルが「キャラ萌え」しかない。

では日本で、なぜこうもキャラクター文化が発達し、人々がキャラ化してきたのか。この問いに答えるのは難しいけど、それについてはむしろ、ヨーロッパ的な人間の概念のほうが特殊なものだったのだと考えるべきでしょう。「私はこう思う」「私は違うように思う」「我々の考え方を総合するとこうなる」「オーケー、理解しあえた」的なコミュニケーション、哲学用語で言う「弁証法」ですが、ヨーロッパ的な人間のモデルはこうなわけです。しかしこれは視点を変えれば、とても神経症的な世界なわけで、まあ端的に面倒くさい。逆に僕たちのキャラ化したコミュニケーションは、ヨーロッパから見たら精神病的(分裂病や離人症的)に映るのでしょう。

ただこれは、地域的な差異というより、むしろ時代的問題と考えることもできる。そもそもヨーロッパの近代は、精神医学的にはとても特殊な空間なんですね。狂気は本来は多様な形態をしていたのに、近代ヨーロッパはそれを、神経症とそれ以外の二つにぐっと押し込めてしまったと言われている。近代ヨーロッパの人間像(神経症的な人間)というのは、そのような文化的な背景のもとで出てくるもので、だからこそそういう背景がない日本では、その人間像そのものが通用しない。したがって、近代もいよいよ終わり、「ポストモダン」と言われる別の段階に入った1970年代以降、アメリカで多重人格障害(解離性同一性障害)が急増し、さらにそれが1990年代の日本で一種の流行になったのもひとつの兆だと思うんです。正しい人間のあり方が変わるとともに、それと対になった狂気のあり方も変わっていく。

これは僕の予想ですが、そもそもアメリカの多重人格障害と日本のキャラ文化は、ある種の対応関係にあるんじゃないですか。日本では「キャラが変わる」と言いますよね。教室ではまじめなのに、外では援助交際やっているとか、一時期言われたやつです。多重人格はそういうのと似ている。それが医学的な症状として出るのか、文化的な表現として現れるのかという違いは大きなものとしてありますが。しかしそれも、ほかの局面でも見られるんです。例えば自己の身体イメージをいかに変形するかというポストモダン特有の問題があるのですが、それに対して、日本人ならコスプレやイメクラ、服装倒錯の方向に行く。それに対してアメリカ人は、ピアッシングやタトゥー、さらには手を切ったり性器を切ったりとか、そういう過激に物質的な方向に行きがちですね。そういうところまで視野に収めれば、一般に「キャラクター文化」と言われているものが、1970年以降の大きな文化的変化のなかで、特異な位置を占めているのが分かると思います。キャラクターに萌えること、そして自分をキャラクターのように感じること、それらは単に趣味のひとつなのではなく、このポストモダンの世界を生きるためのひとつの方法なのです。

(談話)


TIPS

デリダのキー概念の1つに「署名」というのがあります。署名、すなわちサインとは複製不可能だと思われている。実際に毎回書くたびにかたちは違っている。だからこそサインにはオーラがある。でも一方で、サインというのは複製可能じゃないとサインとして通用しない。そんなふうにデリダは、複製可能性こそが、むしろオーラを支えていると考えていたわけですね。

そしてそのような、複製可能性が支えるオーラを、デリダは「幽霊」と呼んでいたわけです。さらに実は彼は、それが「不気味なもの」だとも言っている。今回は触れられなかったけれど、「不気味さ」と「可愛さ」は表裏の関係にあるものです。それは美醜の判断とは異なる、別のレヴェルの感情移入ですね。複製可能性、幽霊、可愛さ……とこう並べてくると、もうこれは、キャラ文化解読の哲学的な基礎のようなものです。だから僕はデリダから離れられないんですね。

「萌え」と「立ち」はまあ、ベクトルが違うと考えるといいと思います。同じ現象をこっちから見るかあっちから見るかということなんですけどね。僕が「萌える」んです。キャラが「立つ」んです。主語が違うんです。だから、使い方によっては、キャラがまだ立ってないのに(たとえば肝心のゲームはまだ発売されてないのに)、設定資料に出ているキャラクターに勝手に消費者が萌えるということもある。僕はそんな現象に関心がありますね。

2000.5.20公開、9.16修正(HTMLのみ)




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