初出:『学士会会報』第836号、学士会、2002年
筆者は「動物化」という言葉を、複雑な人間関係や社会関係抜きで、身体的な欲求を即座に求める傾向を意味するために使っている。コンビニと携帯電話とインターネットがインフラになっている現在の社会環境は、消費者の人間回避=動物化を加速する。たとえば携帯メールのコミュニケーションは多くの人々にとって不可欠なものになっているが、それは、実在の人間と出会うことなく(したがって、出会いに生じるさまざまなリスクを背負うこともなく)、しかし「繋がっている」という実感だけは確保することができる便利な存在である。
このような装置の出現による影響は現在30代以下の多くの日本人に見られるが、1990年代に10代を迎えた若い世代にとりわけ強く現れている。専門の社会学者やジャーナリストではない筆者の方法には限界があるが、それでも、文化批評という枠組みのなかで、その変化をできるだけクリアーに浮かび上がらせてみたい、というのが、今回の本を書いた動機のひとつだった。
このような動機が分かりやすかったのか、広い読者の関心を引きにくい若者のサブカルチャー、それも「オタク系」と呼ばれる癖のある世界を題材としたにもかかわらず、意外にも各界から反響をいただくことができた。何人かの方々には直接ご意見を伺うこともできたのだが、そのなかには厳しい批判を寄せられる方もいた。批判の最大公約数は、「その動物化の傾向を放置しておいていいの?」という疑問だ。なるほど、いまの若い連中(といっても、今年31歳になる筆者もそこに含まれているわけで、動物化の現象は通常の意味での「若者」よりかなり広範囲にまたがっている)が煩雑な人間関係を避け、社会を理解する枠組みである「大きな物語」を失い、人生の目的もないまま、身体的欲求を満たすため消費社会の流れに安易に身を委ねているというのは分かった。しかし、では、そういう傾向を修正するために何をすべきなのか? そのオルタナティブを提示しないまま、現状分析だけを差し出すのは、言論人としていささか無責任ではないのか?
この疑問はもっともである。ところが実は、筆者としては、この単純な質問がもっとも答えにくい。というのも、筆者の考えでは、消費者の「動物化」は、ここ数年の風俗的な現象というものではなく、もっと広く、数十年単位での先進国社会の変化と密接に結びついているからだ。だから、その流れにへの不満には共感することはできても、論理的に考えると、動物化は押しとどめることができないと言わざるをえないのである。
この部分は『動物化するポストモダン』では明確に記さなかったので、この場をお借りして少し補足したい。筆者のような現代思想系の研究者から整理すると、20世紀後半の先進国社会の変化は、大きく二つの傾向に導かれていたと言える。ひとつは「ポストモダン化」であり、もうひとつは「情報化」である。「ポストモダン化」とは思想界で使われる術語だが、要は、消費社会の成熟に従い、近代国家を纏め上げる象徴的な統合性(大きな物語)の力が失われ、国民ひとりひとりの考え方がばらばらになっていく変化のことである。社会の多様化、大衆の分衆化などとも言われる。「情報化」については、あらためて言うまでもないだろう。
この二つの流れは、一見独立したもののように見える。ポストモダン化は社会現象で、情報化は技術の進歩によるものだからだ。ところが実際には、この両者は密接に関係している。この二つの現象は、実は、「社会の象徴的統合から工学的統合へ」というひとつの流れの別々の側面なのだ。
私たちの社会は確かに多様化している。しかし、社会が多様なものであるのは、何もいまに始まったことではない。多様な個人の集合をいかにして「ひとつ」にまとめるのか、その方策が人類社会の課題であることは有史以来変わらない。ただそのなかで、産業革命以降の近代社会はいささか特異な方法を採ってきたと言える。というのも、そこでは、多様な群衆を強制的に暴力によって統合するのではなく(これが近代以前の基本的な方法だった)、教育や福祉行政を通し、各個人に「国家」や「民族」というシンボル=象徴を植え込むことで自発的にまとまるように仕向けていく、というきわめて巧みな方法が運用されてきたからだ。これが前述の「社会の象徴的統合」である。
しかしその時代が、20世紀の半ばあたりに大きな曲がり角を迎える。消費社会の到来そのほか、さまざまな要因によってその象徴的統合のシステムがうまく機能しなくなる。これが「ポストモダン化」である。そして、まさにその欠落の穴を埋めるように、電話、ラジオ、テレビに始まり、最終的にインターネットに行き着いた情報技術の革新運動が現れる。
情報技術によるコミュニケーションの拡大、つまり「共有情報の拡大」は、国家や民族といった象徴を介することなく、直接に群衆をまとめあげることができる。その力は、たとえば、ワイドショーや音楽番組の効果を考えればすぐ分かるだろう。同じタレントを知っている、同じミュージシャンを知っている、という感覚は、まったくの見知らぬ他人のあいだにでもすぐに連帯感を作り出してしまう。メディア論や社会学の研究ですでに明らかなように、1960年代以降、マスコミを介したこのような連帯感は、凋落する一方の国家的な象徴やイデオロギーの役割をかなり肩代わりしてきた。二〇世紀末の先進諸国は、すでに、「国家」や「民族」といった理念ではなく、情報技術の力で一体性を保つ国家になっていたのである。
そしてその流れの果てに、テレビの多チャンネル化、インターネットや携帯電話の普及などの現象が現れる。1960年代から1980年代までのメディア社会においては、いまだ、テレビに代表されるマスメディアは一局集中型の構造を備えていた。そのため、新しい情報技術による統合(アイドルやタレントによる統合)も、かろうじて以前の象徴的統合に類似したかたちを取っていた。それが1990年代には、情報の流通回路が多極分散型に変わってしまう。その結果、もはや、情報の内容そのものは共有されず、ただ、情報の回路だけが共有される世界が訪れる。同じタレントについて関心はないが、しかし、必要とあらばそのタレントについての情報はだれでも同じように引き出すことができる、そういう「情報の収得可能性」が連帯感の基盤になる時代が来るのだ。国民ひとりひとりの多様性を最大限に認めつつも、その多様性の場そのものであるコミュニケーションのインフラは最低限共有することにしましょう、という多文化主義的な情報化国家のアイデアが、ここから立ち現れる。
私たちの社会は、もはや、ひとつの理念や象徴(大きな物語)を軸に構成員の統合を図れるほど単純なものではない。したがって、今後の社会は、共通の行政、共通のデータベース、共通のネットワークのうえに、異なった価値観を抱えた無数のサブカルシャーが林立するという、一種の二層構造を採用せざるをえない。言い換えれば、複数の象徴的共同体が共存する層の下に、システムの層、あるいは工学の層があり、そこではさまざまな利害衝突が工学的に(理念の介在なしに)解決されていく、そのような社会像が理想とされていくことだろう。筆者が「社会の象徴的統合から工学的統合へ」と呼んでいるものは、このような変化のことである。そしてこの視点から見ると、情報化とポストモダン化は、まさに、この30年間、たがいに手と手を携えて進行してきたと言える。
消費者の動物化という現象は、一見オタクやひきこもりといった些細な風俗現象に見えたとしても、本質的には、このポストモダン化=情報化という大きな流れから生まれてきたものだと考えられる。大きな物語は失われた。消費社会の成熟に伴い、同じ社会のなかにも無数の異なった価値観がひしめいている。その時代の針を逆戻りさせることはできない。だからもう、ひととひとは理念や象徴では繋がりあえない。しかしそれでも、情報の回路においてだけは繋がりあえるのかもしれない。そのような直観が、いまの若い世代の一見殺伐としたコミュニケーションを支えている。
筆者はさきほど携帯メールの例を挙げた。短い定型化された文章を頻繁にやりとりする携帯メールの世界は、まさに、内容を共有せず、しかし回路だけは共有するコミュニケーションの場である。筆者自身は、個人的には、そのような場を好まない。しかし、そのような場が生まれてくる必然性は、しっかりと見据えていかなければならないと思う。
2002.8.31公開