初出:『週刊読書人』、2001年3月30日号
【東】 正直言って、いろいろな面でやりやすくなってきました。二、三年前だったらこんなCD‐ROMは作れかったし、5年も遡ればインターネットすら知られてなかった。テクノロジーの発達のいいところは、大袈裟にしなくても質のいいものが作れるようになることです。例えば僕がウェブサイトやCD‐ROMを作っていると言うと、誰か雇っているんじゃないか、出版社が協力しているんじゃないかと質問されるんですが、こんなものはちょっと努力すれば自分で作れるし、またそれがいいところなんです。このCD-ROMはぜんぶ僕が作って、自宅で焼いているんですよ。
ウェブやマルチメディアを使えば、個人ベースで身軽に低予算でいつでも情報を発信できるし、またそのぶん多くの読者に言葉が届く。それにウェブサイトを持つと、自分の情報を自分で管理し、主導権を握ることができる。これまでの批評家やライターは、どうしてもそれぞれの雑誌のなかで役割を果たさざるをえなかった。読者は雑誌についていたわけです。でもウェブで「どこどこに書く」と告知しておけば、読者は雑誌名には関係なく僕の記事を読めますからね。この変化は大きい。これからはこういうことをやる人が増えてくるでしょう。小説家でも、エンターテインメントはすでにそういう方向に動き出している。それは必然なんですよ。今物語を読もうという人たちが、文芸誌に載っている小説だけに飛びつくわけがない。漫画もあり映画もありゲームもありアニメもあって、そういう状況の中で物語を作りたい、人々を感動させたいと本気で思ったら、いろんなメディアに対応可能なものを作るしかない。同じように、批評だっていろんなメディアに対応すべきなんです。それでどこかに面白いクリエーターがいれば、コラボレートして何かできないかと思う。いままでの「批評」はそういう自然な発想からあまりに遠かった。
僕のウェブサイトはトップページのヒットが一日三百くらいです。きちんとデータを取ったことはありませんが、おそらく大半が二十代以下ですね。ここには実は深刻な問題がある。正直言って、ある年代以上の文芸関係の方にホームページを開いていますと言っても、あまり見てくれないんです。でも二十代はまずホームページから入る。これはすごい違いですよ。情報をどこから手に入れるのか、まず最初に何を信用するのかっていう前提がここ五年ぐらいで大きく変わった。旧来の雑誌文化に属している人たちは、この変化についてもっと深刻に考えたほうがいい。あと五年十年で大きなエフェクトが出てくると思います。雑誌で情報を集めようと思わない人たちが増えてきて、ネット上に存在しなければ知識人でもないし作家でもないと思う世代が現れている。そういう変化のなかで有効な活動をするにはどうすればいいのか。やはり自分のサイトを開いたり、CD‐ROMを作ったりってことになる。
そもそも「思想」や「批評」というのは、論壇誌や文壇誌に載ったり、偉い先生がどこかで教えたりするものだけではなかったはずです。ガリ版で刷って配ったっていい。ただし日本は広いし人口も多いからさすがに厳しいということで、印刷文化があるだけの話です。それがインターネットのおかげで、もう一回、ガリ版刷りの発想でもよくなった。でも思想系の書き手はなぜか新しいメディアの登場に対して非常に鈍感ですね。サブカルチャーというかアンダーグラウンドの人たちの方がよっぽど開かれている。
【東】 いないですね。それは本当に深刻なことです。いま純文学系で「批評家」を名のっているひとたちは、どうすれば自分の文章が読まれるか、そのことをまったく考えていない。まあ、そんなことを愚痴ってもしょうがないので、僕は僕のやり方でやっていきますけど。
【東】 『存在論的、郵便的』の時には、一言で言うと、毎回全部のアイディアを投入して書いていたんですね。で、連載の時の順番で本も進んでいたから、最初から全体像が見えやすかったのかもしれません。その点で最近は随分違う書き方をしている。場合場合に応じて書くことが細かく決まっていて、毎回ネタを小出しにしているから、全体像が分かりにくいんだと思う。それと「インコミ」の連載をやっていた時には、データベースの発想がうまく言葉にできていなかったせいで話が前後していた。本になった時はクリアになるはずです。最終的には、連載分が一章と二章に分かれて、次の本に収められます。第一章は理論的な部分で、ある意味で『存在論的、郵便的』に近い。第二章はフィリップ・K・ディックに関する部分が中心になるんですが、これが今までの文芸評論に最も近いタイプのものになるでしょう。もっとも扱うのはSFですが。サイエンス・フィクションというジャンルは一九三〇年代に生まれて、七〇年代に大きな変動を蒙るんですけれど、この歴史そのものが、僕にはポストモダンの本質をよく表しているように思うんですね。 対して第三章は、理論でも作品批評でもなく、作品の群れの話、いわば「作品群」論みたいな話になります。これがいま「ユリイカ」に連載している「過視的なものたち」ですが、そこでは僕は、日本のオタク系文化を中心に扱っています。オタク系文化を取り上げたのは、第一に、僕がフィールドワークをして、生のデータを集めることができるものがそれぐらいしかなかったからです。別にほかの切り口でもよかったし、おそらく僕の議論は音楽や映像の変化についても応用できると思います。ただそれは他の人にやっていただくしかない。僕には生のデータがないから。
いずれにせよ、いま批評的言説にとって重要なのは生のデータから理論的な考察を引き出すことであって、ドゥルーズが何を言ったとか、ジジェクが何を言ったとかいうことをありがたく引用することではない。僕は確かに『存在論的』でデリダをたくさん読みましたが、その後、新しい外国の思想家を見つけてきては、誰々がこう言っているということしか言えないのであれば、そんなものは思想でもないし批評でもないでしょう。教養は重要ですが、いま必要なのはむしろ生のデータなのです。そういう思想のあり方のひとつの提案として次の本がある。
【東】 今度の本全体のテーマは、一言で言えば、「ポストモダン化された社会においてはあらゆる文化の形態がデータベース化される」ということです。それが大前提としてあって、その上で個々の文化活動をどうクリティックしていくかの新しい指針を打ち出せればいいと思っています。
「ユリイカ」の最新号(三月号)でも、ポストモダンでは「オリジナルとコピー」の対立ではなく、「シュミラークルとデータベース」の対立が重要だと書きました。ポストモダニズム批評は一般に、オリジナルとコピーの対立がなくなって全部シュミラークルばかりなのだと述べてきたのですが、この発想はどうしても作品を批評する軸にならない。それに対して僕の提案は、データベースとシュミラークルという新たな対立軸を導入することで、新しい言葉で作品の動きや消費者の動きを捉えることができるのではないか、ということです。
例えばひと昔前であれば、映画を観ても文学を読んでも、そこにある政治的な物語を読み込めば批評ができることになっていた。作品は社会を反映する、と考えられていたわけです。でもその後はその種の批評ができなくなってしまった。なぜかと言えば、物語がないからですよ。「大きな物語」がなくなって「小さな物語」だらけの世界になり、そこでは個々の感性でそれぞれが勝手に物を作っているからです。けれども僕はそこで、物語がないから批評ができないのはおかしい、確かにみなバラバラに物を作っているように見えるかもしれないが、実際にはその背景にはデータベースがあるではないか、と言いたいわけです。データベースという観点を持てば、今まで批評ができないと思われていたところにも批評ができるかもしれないということです。
【東】 すっきりというか、えらく簡単になっているでしょう(笑)。実は僕はもう簡単なものしか書きたくないんですよ。前のインタビューの時に、「名刺の裏に書ける(理論)」という話があったじゃないですか。その点で言えば、今度の本のテーマは「データベース」一言です。タイトルも『データベース型世界』で行こうかと考えている。とにかくシンプルにいきたい。僕は思想というのは、読もうと思えばいくらでも読めるという要約不可能な面と、ある程度簡単なマニュアル的な面の、二つの面を備えているべきだと思う。例えばハイデガーには「現存在」、デリダには「脱構築」というキーワードがあるじゃないですか。テクストを読んだことがなくても、そういうことを言っている「らしい」と思える状態になったとき、思想ははじめて伝播力を持つ。だから僕も、次の本は、表面を均してできるだけ簡単に書くつもりです。
【東】 ありがとうございます。確かに、次の本について知るにはCD‐ROMが一番わかりやすいと思います。そもそも「データベース」という言葉でいこうと思ったのが講演の直前でしたし、あの講演のときには、ようやくこれで自分があちこちでやっていることの筋が一本通ったという感じがしましたから。今回の企画が意外と好評なので、次の本が出たらまたCD‐ROMを作るかもしれません。CD-ROMセットの二枚目で話をしている篠田匡弘さんが「TINAMI」っていう検索エンジンの管理人をしているんですが、彼はまさにデータベース化されたデータをいっぱい持っているんで、そのデータを使わせてもらって、もう少し実践的な分析を付録として入れたCD―ROMを作ってもいいかなと。
もう一点、あの篠田さんとの対話について言えば、いまの印刷媒体ではああいう話ができないんですよ。扱ってくれるところが見つからない。実はサブカルチャー批評っていうのは一番場がないんです。世の中にはアニメとかゲームで衝撃を受けてものを考えようと思った人も結構いると思うんですが、そういう人たちの受け皿になる媒体が驚くほど少ない。だから僕も自主企画でやるしかなかった。
結局、批評家がこれまでやってこなかったことが本当にいっぱいあるんです。そのすべてについて僕ができるわけではないですが、今後の批評のひとつのモデルを提示したいとは思っています。ウェブ展開や自主制作はその一貫です。
【東】 エンターテイメントについて語ると、東さんも名前が売れたから軽いことをやってるんですね、みたいなことを言う人も多いのですが、それは全く違う。むしろアニメやSF、ミステリーなどのジャンルのほうが、長いあいだ無意識に育ってきたぶん難しい事態があるんです。例えばミステリーの文体は、「新青年」以来のゴシック的想像力をそのまま引き継いでいる。簡単に言えば、漢字が多くて、変な人名が出てきて、おどろおどろした設定が多い。そしてそういう文体はマンガやゲームにも侵入して、実は純文学の私小説的文体よりもはるかに大きな市場を支配している。しかし、こういう想像力は僕にはとても不思議なものに思える。日本のゴシック小説ではなぜ漢字が多いのか。例えば、一昨年、中世フランスを舞台としたファンタジーを疑似雅文体で書いた小説が芥川賞を取りましたが、しかし、普通に考えてフランス人と漢字はまったく関係ないですからね。ああいう捻れについて考えると、日本にとってヨーロッパとは何かとか、文学とは何かとか、大きな問題に繋がっていくと思います。オタク系文化の歪みはそのまま戦後日本の歪みなのだ、というのは、「ユリイカ」連載の第一回にも書きました。
【東】 第二章はSFなんですが、第三章はそういう特定のジャンルではなくて、オタク系文化一般の話です。さらに正確に言えば、キャラクター文化の話ですね。キャラクターって何なのか、という疑問です。「オタク」とはあくまでも特定の世代の特定の集団の名前ですが、僕は彼らの心理にはあまり興味がない。僕の関心はむしろ、物の動きや図像のあり方そのものにあるんです。秋葉原のショップに行くと、一面に美少女イラストのポスターが張ってあって、そのデザインや組み合わせが季節ごとに微妙に変わっていく。それは僕の印象では、いわば、消費者も生産者もいない、デザインだけが単独であって、それがデータベースに解体されてまた再構成されるような世界なんですね。そういったモノだけの世界のマッピングをしてみたい、というのが第三章の本当の動機です。とてもそこまでは行っていませんが。
【東】 そうですね。それは僕自身も思います。次の本が多くの人を納得させられるかどうかは分かりませんが、とにかく、僕が最初にイメージしていた「思想」や「批評」の姿がはじめて本になるといった感じです。それでもいま『存在論的、郵便的』を振り返ってみると、あのときも同じことをやっていたな、と思うこともあります。あの本での僕の読みは、一言で言うと、データベース的に哲学を読むとどうなるかって実験だったんだと思うんですね。デリダの第二期に「郵便的」というモチーフがあった、というのが僕の主張ですが、あれは実は普通に読めばまず出てこない。それを、デリダのテクストをいったん分解して、あるやり方で再構成して読むとそう読めるんだ、と主張したわけですよ。だから、もしデリダ自身に「郵便的というモチーフがありますね」と尋ねても、肯定しないと思う。デリダ本人が否定する以上、ある意味でそれは間違った読みなわけだけど、しかしでも、それはそう読めてしまう。この「読めてしまう」って部分が僕の強調したかったことなんですね。そしていま、僕はオタク系文化やポストモダニズムに対してもまったく同じことをやろうとしている。だから、いま僕の書いていることをアニメの製作者や消費者に言っても、別に同意も得られないと思いますよ。当然別の見方もあるし反論も出てくる。でも、彼ら本人の自意識は異なるかもしれないけれども、ある見方で見るとあなたたちはこんなふうに動いている、そしてそれを説明するにはこう考えるのがもっとも効率がいい、そういうタイプのものなんですよ、僕の仕事は。
知っています。僕が村上隆さん編集の画集『スーパーフラット』(マドラ出版)に寄せた文章に向けられた批判ですね。いままでの話とも繋がりますが、理論というのは純粋な形式=データベースであって、解釈の仕方によってはどんなものにでもあてはまる、というのが僕の立場です。そしてその適用の部分は各人の自由であって、裏返せば、そこに批評家の個別の立場が反映される。その適用からどんな物語が紡ぎだせても、それが一貫しているかぎり「解釈しすぎ」ということはない。けれど浅田さんは、理論の価値そのものを実体化しているように思う。スーパーフラット云々よりも、そのすれ違いがあの批判の本質だと思います。
ただ付け加えると、もし浅田さんが、僕がスーパーフラットに現代思想の言葉を付けたのが気に食わなかったのなら、直接スーパーフラットについてお書きになればよかったと思う。スーパーフラットについて書く東浩紀の欠点を批判する、などという回りくどいことをしても、浅田さんと僕の「論争」を待ち望んでいるギャラリーを喜ばすだけです。実際に、浅田さんのあの文章のあと、僕への便乗攻撃もいくつか出てますしね。そういうひとたちを喜ばせたくないので、僕はとくに反論もしませんでした。それに、次の本を早く出すことのほうが、よっぽど生産的な反論だと思いましたし。まあ、とにかく、本が出せるように精進します。
聞き手:編集部(明石健五)