初出:木田元(編)、『思想読本3 ハイデガー』、作品社、2001年
私が哲学や思想を学び始めたときは、もう時代は1990年代だった。冷戦が終わり、マルクス主義もドイツ観念論も、大学の外ではすでに影響力を失ってしまっていた。そのなかで私がハイデガーを読み始めたのは、かろうじてまだ商業的に生き残っていた「フランス現代思想」を介してのことである。私はハイデガーを、おもにジャック・デリダを通して読んだ。デリダはハイデガーについて多くの著作で言及している。というよりも、彼の思想の根幹がハイデガー哲学との対決から生まれている。デリダといえば「エクリチュール」(文字)という概念が有名だが、人間的主体をエクリチュールの戯れとして捉えるその考え方は、明らかにハイデガーの「存在の声」と対照をなしている。人間は、声に呼びかけられて主体となるのか、それとも文字で書かれて主体となるのか、ハイデガーとデリダの思想の差異はそこに要約されると言っても過言ではない。
そしてこれはデリダだけに言えることではない。前述のように、私の思想的な入口は1960年代に現れたフランス現代思想だったが、院生時代、研究を進めるにつれてその全体を覆うハイデガーの影の大きさを痛感するようになった。ドゥルーズにしろラカンにしろリオタールにしろ、その思想の根幹はハイデガーが用意した語彙と文法のなかにすっぽりと収まっている。より正確に言えば、デリダやドゥルーズはそこから何とか脱出しようともがいているのだが、その抵抗もやはりハイデガー流の方法で行われている。そしてこのような事情に通じると、彼らのテクストを特徴づける謎めいた表現もまた、驚くほど簡単に理解できる。
日本では、1980年代、フランス現代思想がなぜかジャーナリスティックに流行し、分からないままにファッションとして消費されるという現象が起きた。かくいう私自身がそのファッションの中で育った世代に属するが、その当時に感じた気持ちの悪さは、何のことはない、ハイデガーを読むとぜんぶきれいに解消されてしまう。これは20代半ばの私にとっては、単純に、嬉しくかつ新鮮な発見だった。私の博士論文は受理とほぼ同時に公刊されたが、このような事情から、その著作の最後はもはやデリダ論というよりハイデガー論(と、また別の理由からフロイト論)に近くなっている。こんなことなら最初からドイツ語圏の哲学を勉強すればよかったのだが、まあ、そのような回り道を強いられるのが後発世代というものなのだろう。その迂回は、先行世代からするといささか倒錯的に見えるのかもしれない。
とはいえ、その迂回のせいで得をした部分もある。デリダは癖が強い解釈を行うので有名だが、ときに驚くほど鋭い指摘を記すことがある。そのなかでもっとも私の印象に残っているのは、デリダが1987年に行ったある講演で、ハイデガーの動物の観念について述べた短いコメントだ。そこで問題になっているのはあまり主要とは言えないテクストであり、自分ひとりでハイデガーを読んでいたら決して問題意識をもたなかっただろう。しかし、いちど指摘されてみればとても重要な箇所だ。
問題の箇所はハイデガーが1929-30年の冬学期に行った講義の一節である。彼はそこで「世界が貧しい」という奇妙な言葉を用いた。それは「世界をもたない」と「世界形成的」という二つの言葉に対立し、石は世界をもたず、動物は世界が貧しく、人間は世界形成的なのだ、という一種のヒエラルキーを構成している。しかしデリダによれば、この発想はハイデガー哲学の根本と衝突している。動物の世界が「貧しい」と言うのだとすれば、その立場はもはや、人間と動物と無生物とをひとつのスケールのなかで捉える、生物学的で人間主義的な経験諸学とほとんど変わらない。しかしハイデガーはまさに、現存在と存在についての自らの学を、それら存在者に関する知識から徹底的に切断することを主張していた。ハイデガーはこの矛盾を放置している。そしてデリダは、まさにこの点にこそ、きわめて抽象的で構造的だったハイデガー哲学がファシズムと親和性をもってしまった、言い換えれば、狭量な人間中心主義からもっとも遠かったはずの思想がいつのまにか最悪の民族中心主義へと転化してしまった、その不徹底性の原因が窺えると主張するのだ。
私はこの指摘が長いあいだ気にかかっている。ハイデガーの哲学はとても力強く、かつ繊細だが、しかし動物の存在論的地位をうまく定められない。言い換えれば、人間と世界の関係は扱えるのだが、その人間が世界から生まれてくる連続的な構造は扱えない。だからこそその思想は、人間を動物として扱う野蛮さに対して、恐ろしく脆弱で、かつ無防備だったのだ。ここにはおそらく、やはり同じように人間を動物として扱うし、また扱わざるをえない脳化学や生物情報科学の進展を前にして、旧来の人文科学がいま直面している困難のひとつの雛形が現れている。その困難の正体をより精密に見極めるためにも、ハイデガーは、たとえ反面教師としてではあれ、これからもまだまだ読まれ続ける必要があるだろう。動物の現存在分析なるものが考えられるのか、ひとことで言ってしまえば、そこにこそ21世紀の哲学の運命は賭けられているように私には思われる。
2001.8.31公開