鏡像から生殖へ

戦闘妖精の精神分析


初出:『戦闘妖精・雪風解析マニュアル』、早川書房、2002年


以下のエッセイでは『戦闘妖精・雪風』と『グッドラック』の結末に言及するので、本編を未読の方は注意されたい。また、括弧内に示されている数字は参照ページ数。『雪風』の引用は二〇〇二年の文庫版『戦闘妖精・雪風〈改〉』に、『グッドラック』の引用は二〇〇一年の文庫版に依拠した。

神林長平の小説の多くには、哲学的な主題が含まれている。『戦闘妖精・雪風』と『グッドラック』もまた例外ではない。人間と機械、地球人と異星体のあいだのディスコミュニケーションを描くこの連作の主題は、ひとことで言えば「他者」である。それは哲学的な問題提起であると同時に、クラークやレムの伝統に連なるSFの古典的な主題でもある。とはいえ、この点についてはすでに多くの評論が書かれているようなので、本論ではとくに論じない。


かわりにここでは、少し異なった視点からこの連作を分析してみたい。『雪風』は一九八四年に出版され、『グッドラック』は一九九九年に出版された。この一五年のあいだには、現実社会も作家自身も変わった。それを受けて、両者のあいだでは作品を支える世界観が大きく変化している。

具体的にはそれは、地球とフェアリイ星の関係の変化に象徴されている。『雪風』の序章は、「いつの時代のものでもよい、世界地図を広げたとき、そのどこにも戦争、紛争、対立の示されていない地図など例外中の例外である」という架空の本の引用で始まっている(雪九)。フェアリイ星でのFAFとジャムの戦いの背後には、地球における生々しい国際政治が存在する。そしてこの小説はそのことに頻繁に読者の注意を促している。たとえば第三章には、「ロシア人が米国製の武器で戦う図など想像できなかった」アメリカのナショナリストが登場するし(雪一一六)、第七章では、日本海軍の空母に降り立った登場人物が、「この空母にせよ、地球軍のものではないでしょう。有事の際は他国の人間を殺すために行動するんだ」と発言する。『雪風』の世界では、冷戦構造を反映した世俗的現実の優位が揺らぐことはなく、虚構だと感じられるのは必ずフェアリイ星のほうである。「現代人の多くはFAFとジャムの戦闘を、絵本の中の妖精たちの戦いくらいにしか思っていない」(雪一五)。

ジャムという現実、その現実を覆い隠す別の現実=地球、そのあいだで苛立つFAF。この三者構造は、『雪風』という小説に分かりやすい構造を与えている。たとえば筆者が連想するのは、受難の物語である。一方では荒ぶる神に試され、他方では世俗的な無関心と排斥に曝される孤独な幻視者の物語。『雪風』がどこか宗教的な印象を与えるのは、主題もさることながら、このような構造面の特徴が大きい。

ところが『グッドラック』では、まさにこの基本構造が揺らいでいる。たとえば第二章で弁護士が地球からやってきたとき、ブッカーは「ポラック[弁護士のこと]は地球の幻想で動いている男だよ。地球の常識と行ってもいい。ここでは異質だ」と感想を漏らす(グ一二七)。同じ章で地球に戻った主人公、深井零は、ある陰謀に巻き込まれる。ところが最後に彼が到達する結論は「あの日本海軍省の人間とやらは俳優で、すべてがFAFによって仕組まれた芝居なのかもしれない」というものだ(グ一五〇)。ここでは世俗的現実の優位は失われ、ときにはそちらこそが幻想や虚構と見なされる。

にもかかわらず、では『グッドラック』ではフェアリイ星が優位な現実と見なされるのかといえば、そうとも言えない。むしろこの作品を特徴づけるのは、地球とフェアリイ星、人間とジャム、人間とコンピュータ、そのどちらが現実でどちらが幻想なのか判断できない、不安定な世界観である。

たとえば第三章で、フォスは、「いまのジャムは特殊戦がこの戦闘環境を消滅させないために生み出している幻想、仮想敵のようなもの」ではないかと問いかけ、零はその意見に半ば同意している(グ一八六)。そもそも『グッドラック』で中心的に描かれる戦いは、『雪風』のような戦闘機同士の直接戦闘ではない。そこで描かれるのは、FAF内に潜入した複製人間と特殊戦部隊のあいだの諜報戦であり、そこに政治的野望を重ねる人間間の神経戦であり、さらには、ジャムに操られたFAFコンピュータと雪風が操る別のコンピュータのあいだのハッキング戦である。それらの戦いは明確な輪郭を欠き、しかも、本来ならそこで確固たる判断基準を提供してくれるはずの戦闘機「雪風」でさえ、「幽霊のことが気にかかって、他のことは考えられないでいる」「パラノイア状態」にある(グ五三二)。「まだ地球というものが存在しているのかどうか、身体で確かめ」ねばならないほど深くジャムと関わっておきながら(グ一二八)、『グッドラック』の零やブッカーは、ときにそのジャムの実在さえ疑い、味方と敵の区別もろくにつけられない混乱状態に陥っている。この混濁は、「敵ではなかったが、味方でもなかった。ということは敵だ」という零の台詞で特徴付けられる『雪風』の明晰さからは(雪四〇)、実に遠い。

第一作の『雪風』は、明確な構造と明確な主題をもった小説である。そこでは世俗的世界と宗教的世界、敵と味方は峻別され、戦闘の目的も自明だ。この作品の零は、「戦闘中、きみはなにを考えているのだろう」という質問に対し、「なにも考えない。空白だ」と答えている(雪一二三)。「空白」に向かうこと、自らをできるだけ機械に近づけていくことこそが、彼の、ひいてはFAFの目的である。これもまた宗教的精神を思わせる。『雪風』の最後、雪風の魂に見捨てられる零の嘆きは、神に見捨てられた狂信家のようだ。

しかし第二作の『グッドラック』は、それほど明確な構造と主題をもっていない。世俗的世界も宗教的世界もどちらも現実感を欠き、敵は遍在し、目的もよく分からなくなっている。その複雑な状況は、零にすら「ジャムに関した、答えの出しようのない議論を続けるのは無駄だ」と言わせるほどだ(グ五六七)。したがって、『グッドラック』は、実は『雪風』ほどは美しい小説ではない。


同じ変化を別の観点から捉えてみよう。「敵ではなかったが、味方でもなかった。ということは敵だ」という前述の台詞に象徴されるように、『雪風』の登場人物はつねに自己の境界を気にかけている。言い換えれば、自己と非自己、守るべきものと守るべきでないものの峻別をつねに試みている。

たとえばFAFの兵士がジャムと戦うのは、地球のためでも祖国のためでもなく、「自己保存」のためだ(雪一一六)。そして零が雪風を守るのは、ブッカーが指摘するように、彼がこの戦闘機に自己同一化しているからだ。「おれは雪風以外のものを守ろうと思わん」(雪一八三)。確かに、零の心には、「ジャムと地球機械はこう言うだろう、これはわれわれの戦いだ、人間の出る幕ではない」という夢想も浮かんでいる(雪一一一)。しかしそれでも彼は、雪風を自己に含める、戦闘機を味方とみなすという判断の正しさを最後の最後まで疑わない。そして『雪風』は、まさにその誤りが明らかになったところで終わる。

では『グッドラック』はどうか。作家はこの小説で鏡の隠喩を導入している。第六章で零は、かつての自分に「そっくり」だと言われる桂城に出会う。そこで零が行うのは、桂城に「きみは自分の鏡を持っているか」と問いかけることである(グ三三九)。「かつての自分は、このような興味はまったく抱かなかった。鏡といえば、鏡でしげしげと自分の顔を見るなどということはしなかった」(グ三三二)。『雪風』の零は鏡をもたなかったが、『グッドラック』の零は鏡をもっている。前者は鏡像を嫌い、後者は鏡像を受け入れた。

鏡像は自己の境界を脅かす典型的な存在である。具体的な鏡のエピソードは『雪風』には登場しない。しかし、鏡を隠喩として抽象的に捉えるのならば、そこで零が鏡像を恐れていたことははっきり描かれている。それはたとえば、雪風の複製機が現れる第六章に明らかである。零の恐怖がさらに高まるのは、第八章で「ジャム人間」にはじめて出会う場面だ。ジャム人間は、見かけは完全に人間と同じでありながら、実は私たちと異なるD型アミノ酸で作られている。それは文字どおり人間の鏡像である。この章では零は自分自身のレプリカにも出会う。そしてそれらの場面の零は、空中戦のときの冷静さを失い、凶暴な嫌悪感を爆発させている。零にとって、鏡像に出会うことは、戦闘中の死よりも恐ろしい。

ところがその恐怖が、『グッドラック』では見事に乗り越えられている。零と桂城は一種の鏡像関係にある。零は桂城にジャム人間ではないかと疑われてすらいる。にもかかわらず、零は桂城と積極的に雑談を交わす。そしてその会話のなかで、雪風やジャムの「意識」が自分の意識の投影にすぎないかもしれないこと、すべてが鏡のなかの影との会話かもしれないことを認めていく(グ三六三)。『グッドラック』の零は、鏡像を前にすること、自分が鏡像を必要としていることを恐れない。つまり、自己と非自己の境界が明確に保たれることを求めない。

軍医のフォスは、零と雪風について、「他者と認めつつ、それはまた自己の一部でもあると意識する」関係にあると分析する(グ四八〇)。『雪風』の零は、雪風との絶対的な同一化を求め、そして裏切られた。『グッドラック』の零は、もっと曖昧で両義的な関係を生きている。

もうひとつ補助線を引いておこう。『雪風』では女性が抑圧されている。抑圧、というのは、ここでは精神分析的な意味においてである。

『雪風』が描くFAFは、あくまでも男性兵士たちが作る同志愛的な(ホモソシアルな)組織である。確かに女性の軍人も「男性と同数」いると書かれてはいる。しかしその記述は売春婦との比較で語られるものだし(雪四七)、実際に登場する二人の女性軍人も、ステレオタイプな描写に押し込められている。クーリィ准将は「しわしわ婆さん」と呼ばれ(雪五四)、エメリー中尉は別の将校の「個人秘書」としてしか認知されない(雪二八二)。女性ジャーナリストのリン・ジャクスンは、零やブッカーの関係を見て疎外感を覚えるばかりだ(雪三一六以下)。零はかつての恋人の顔すら思い出せない(雪一八三)。

対して『グッドラック』においては、ジャクスンや女性軍医のフォスが、物語の展開上重要な役割を果たしている。しかもそれは性的に描かれている。彼女たちはともに誘惑の態度を示すが、とりわけフォスはそれが激しい。「わたしはだれかさんのように自分が人間であることを忘れたことはないし、人間には性があるという事実も意識している。わたしは女よ。無性の生き物だなどとは思ったこともない」(グ三〇六)。零との長い疑似恋愛的な会話の果て、フォスが到達するのは、「あなたと雪風、特殊戦の戦闘機械知性体とその人間たち、それを結びつけているのは、愛する、という能力なのよ」という結論だ(グ六二九)。

第一作が硬質な同志愛的空間として描き出したFAFは、ここでは、性愛に満ちた柔らかな空間として読み換えられている。『雪風』ではフェアリイ星は「人間の匂いのない」空間だとされていたが(雪三二〇)、『グッドラック』で雪風の後席に座ったフォスは、まず「汗くさい」「すごく生々しい」と感想を述べる(グ四九三)。そしてこの変化によって、女性の描写もまたはるかに生き生きとしてくる。たとえば、第一作では「婆さん」でしかなかったクーリイも、この小説では、父へのコンプレックスや性差別の経験を語り出している(グ五四六−五四八)。

そしてこの鏡像の恐怖と女性の抑圧という二つの特徴は、たがいに絡み合いながら、冒頭で述べた『雪風』の構造に深く繋がっている。

精神分析には「鏡像段階」という言葉がある。鏡像段階(生後六ヶ月から一八ヶ月)の児童は、鏡に映る自分の姿に両義的な感情をもつと言われる。一方では鏡像との絶対的な同一化を求め、他方では激しい攻撃欲を抱く。彼らは、自分の似姿と一体になりたいというナルシスト的な欲望を抱きながら、しかし、というよりむしろそれゆえに、その一体化の実現には底知れぬ恐怖を感じるのだ。その感情の揺らぎは「象徴的な父」の介入によってはじめて安定する、と精神分析は教えている。

『雪風』の描くフェアリイ星は、まさにその「象徴的な父」の不在で特徴づけられる世界である。FAFの大部分は「各国で不要と烙印を押された者」で構成されている(雪三〇八)。彼らは地球の象徴的な秩序に参入できなかった者、つまりは「父」からの承認を得られなかった者である。「おれは余計者として生まれたんだ」と零は言う(雪四九)。この出自は、零たちがまだ鏡像段階を抜けきっていないこと、自己が自己であることに確信をもてず、鏡像への激しい愛憎を捨て切れていないことを意味する。だからこそ、そこでは、逆に、鏡像と性愛を慎重に避けることが必要とされる。兵士たちは「なにかの手違いで人間になってしまった機械」と呼ばれ(雪一四)、その動作にノイズを持ち込む女性の存在は後景に退く。この特徴は、地球という父から離れ、私生児だけのユートピアを作るための、必要不可欠なコストだったのである。

とはいえ、そのように構築された『雪風』の人工的で同志愛的な世界は、やはりそれだけでは安定できない。不在のはずの父はジャムとして回帰し、抑圧されたはずの女性は、「乙女」「恋人」「娘」と呼ばれる戦闘機、「妖精」シルフィールドとして回帰する(雪七七、二七七)。地球という「父」の現実から離れたところに作られた、もうひとつの現実。そこでは、私生児は機械になり、父は異星体になり、女性は戦闘機に変わってしまう。私生児たちはその「代補された父」=ジャムの強大さを訴えるが、現実の父=地球にとっては、それは、象徴秩序に参入できない落ちこぼれが捏造した幻想にすぎない。まさにここから、冒頭で記した受難の物語が生まれる。世俗の父から放逐され、その穴を埋めるためさらに大きな父を幻視してしまうこと、それは宗教者一般の条件にほかならない。


このように読んでいくと分かるように、『雪風』はすぐれて精神分析的な構造をもっている。『雪風』の明晰さとは、何よりもまず精神分析的な明晰さなのだ。そして『グッドラック』は、まさに、その明晰さを内側から揺さぶり、『雪風』が作り上げた宗教的=精神分析的=同志愛的な閉域から零を解放するために書かれている。したがって、この第二作で分析医のフォスが重要な役割を果たすのは、決して偶然ではない。彼女は零を分析するだけではない。『グッドラック』の物語は、全体として『雪風』のカウンセリングになっている。

ならばこの第二作は、その閉域から解放した零をどこに連れて行こうとしているのか。ここから先は分析というより素朴な印象論になる、という言い訳のうえで記させてもらえば、そこでは、小説の随所に顔を出す「生命」の隠喩が導きの糸になるように思われる。

『雪風』の戦争は鏡の戦争だった。FAFとジャムは戦力面や技術面で互角であり、たがいにディスコミュニケーションに苦しめられつつも、その苦悩もまた対称的だった。「この戦争は、ジャム対人間に作られた機械、人間対ジャムに作られた人間となるわけだ」という零の言葉が、その特徴を簡潔に伝えている(雪三七〇)。

しかし、前述のように、『グッドラック』の戦争はより複雑な形態を取っている。戦闘機同士の直接戦闘に加え、FAFとジャム人間の諜報戦、コンピュータ間のハッキング戦やFAF内の内紛が絡み合ったその闘いは、人間対ジャム、コンピュータ対ジャムといった「単純な闘争じゃない」(グ四七七)。それはこの小説では「生存競争」の隠喩で語られ(グ三四九)、戦闘の主体もまた種の隠喩で語られている。

たとえば、第六章で雪風に接触を図ってきたジャムは、「ユキカゼを含む」「貴殿」に呼びかけ、零や雪風は「われに相似」な「ヒト的意識をもたない知性体」だと述べている(グ四〇五)。それを受けたフォスは、今度は、零と雪風、それに特殊戦の構成員全体が、人間と機械が融合した「新種の複合生命体」を構成していると考える(グ四七九)。フェアリイ星に存在するものは、人間とジャム、機械だけではない。それらはたがいに接続し、情報を交換し、感情的に結合することで、いくつもの生命状組織を作り出している。重要なのはそれらのなかで何が生き残り、何が死滅するかであり、人間の自己同一性は問題にならない。言い換えれば、その生存競争に勝つためには、個人としての自己に固執してはならない。「生き延びたいのなら、自分も特殊戦との複合体になればいい」(グ五三三)。

精神分析の牢獄は、ひとを同一性のなかに閉じこめる。『グッドラック』が零を誘うのは、そのような同一性そのものが解体され、人間と機械との区別なく、ただ生命の流れがあるような情報論的で生気論的な世界である。『雪風』の零は自己を守るために戦うが、『グッドラック』の零は生き残るために戦う。この二つの行為のあいだには無限の懸隔がある。

『グッドラック』の最後、零は、ブッカーから借りた腕時計をフォスに渡し、圧倒的に不利な戦況のもとでジャムの制圧空域内へ飛び立っていく。ブッカーはその決断を、救世主気取りか自殺志願だと強く非難する(グ六二四)。しかし、ここまでの読解で分かるように、その非難はやはり当たらないのだ。零は「雪風と一緒にいたい」と簡潔に答え、フォスは「ジャムは雪風を待っている」と指摘する(グ六二五)。零はひとりでは生き残れない。雪風と一緒でも生き残れない。だから零は、雪風とともに、ジャムのなかに身を投じることを選ぶ。フォスは最後につぎのように話しかけ、零を送り出していく。「相手を、自分自身として感じ取れる能力。浮わついた恋愛感情ではなくて、生き残りのためならばその自分の一部を犠牲にすることもいとわない、という厳しいものよ。ジャムにも教えてあげるといい。ジャムは、愛を知らない」(グ六二七)。

零はそれに否定的な答えを返す。零はジャムに愛を教える気はない。しかし、彼自身の意図がどうあれ、ジャムは零と雪風から何かを学び、零と雪風もまたそこから何かを学び、そこに新しい生命状組織が誕生することだろう。生殖行為に愛は要らない。天空のブラッディ・ロード、つまり「血の道」に向けて最大推力で突き刺さる戦闘妖精の姿、それは筆者には、風の女王の飛翔というより、人類がジャムの子宮に向かって行った巨大な射精のように見えた。

2003.4.13公開




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