萌える世界、さまよう作家性


初出:『コミック・ファン』(別冊ぱふ)第12号、雑草社、2001年


オタク文化とポストモダン

本当の理由をいうと、自分が一番親しんでいる世界だから、ということになります(笑)。ただもう少し一般的な理由は二つあります。ひとつは、オタクとは日本の問題だからです。この場合の「日本」というのは戦後の日本、アメリカナイズされ、文化的にずたずたになった日本のことです。日本の問題を考えるのは、日本にいて日本語でものを考えるとき不可欠ですが、そのときに僕は、川端康成や志賀直哉からじゃなくて、オタクから考えたかったということです。

そもそも「日本」といっても、昔から連続する日本文化があるわけではなく、いくつもの切断があります。オタクはよく日本的な伝統をもちだしますが、あれだって本当はフェイクです。例えばまんがを創ったのは手塚治虫と言われますが、彼の起源はアメリカのコミックやディズニーですね。アニメでもフィギュアでもSFでも、オタク文化の中核はたいていアメリカ起源です。一般的に考えて、オタク文化はジャパナイズされたアメリカ文化だと言っていい。でもだからこそ、そこには日本独自の歪みが見えてくる。それをうまく分析すると、戦後日本の姿が見えてくるように思うんです。そこがオタク系文化を取り上げるひとつの理由です。

あともう一つはポストモダンの問題です。ポストモダンとは1970年以降の世界のことで、その文化的な特徴の一つは、オリジナルとコピーの区別がなくなり、全部シミュラークル(実体がなく複製としてのみ存在する記号、または記号が一人歩きして現実を失うこと)ばかりになってしまうことだと言われています。日本の同人誌ほどそれを明確に体現している文化は、おそらく世界中どこにもありません。つまりオタク系文化は、ポストモダンと日本について考えるときに、入り口として一番いいんです。しかもオタク系文化は、そのなかで生産者と消費者が同居しているので、一辺倒な消費文化論とかモード論にもならない。ですから魅力的な素材なんです。素材というより、オタクは我々が生きている条件ですから、その条件を通らずにものを考えることはできないと思います。


まんがというメディアの消失

僕が最近考えているのは、むしろ、オタク系文化をまんがとかアニメといったメディアで区切って考えてはいけないのではないか、ということです。例えば『デ・ジ・キャラット』(でじこ)は最初からメディアミックスで作られ、どのメディアにも起源がないわけです。少なからぬ作品がそういうふうに作られている現状があるし、消費者=生産者である二次創作作家たちもそれを自然に受け入れている。でじこのパロディまんがを描いている人たちは、おそらく、まんがを描くという意識より、キャラグッズの一種を作っているという意識のほうが強いと思うんですよ。

これは印象論ですが、80年代の後半から、まんがやアニメはどんどんメディアミックスのなかに溶け込んできて、ひとつの「ジャンル」としてのまとまりが弱くなっているような気がします。現在では、まんがやアニメをメディアとしてオタク系文化があるのではなくて、メディアをみんなまとめた巨大な「海」があり、その海の上でキャラクターだけがぷかぷか浮かんでいて、そのキャラクターを消費する人がそれぞれ、萌えに応じてメディアを選んでいる、という状態だと思うんですよ。ですからその流れを捉えようとするときに、まんがとかアニメとかゲームといったメディアで分けるという切り口ではダメなのではないか、と思うわけです。

むろん、個々のまんがには面白いものがあるし、今でもオタク系文化の原動力には違いないと思いますよ。けれど、それはまんがというまとまりになっているのか。『サルでも描けるまんが教室』あたりが最後で、そのあとはもうオタク系のメディアミックスとキャラクター産業があって、まんがもその一断面を為しているにすぎない、という状態ではないでしょうか。

難しいですね。僕は逆に、いろんなメディアを連続的に消費する人のほうが多い気がするんですけどね。まんがなら、劇画からエロパロまで、あらゆるジャンルのまんがが好きという人は、少なくなってきていませんか? 今はメディアを横断して、別の切り口で作品を好きになるようになってきていると思うんです。

例えば、10代の半ばで耽美系ノベルに出会った女の子は、表紙に惹かれてイラストを描き始め、そして同人誌に入っていくのかもしれませんが、青年まんがのような他ジャンルのまんがには触れないんじゃないですか。その人自身は、まんがも見ればアニメも見るしゲームもする。ただそれは「耽美系」という括りで見ているのであって、一つのメディアを軸に見ているのではないように思います。「萌え」も同様です。メディアで見る見方を縦、作品の傾向性で見る見方を横とすれば、今は横で見る人が増えてきているのではないでしょうか。これは印象論ですし、これからも縦で見る人がいなくなるとは思いませんが。

その場合は作家が縦で、萌えが横になるんでしょうね。確かに作家の名前は重要だとは思いますが……、でもそれも、基本は萌え要素重視であって、個々の作家はオリジナリティではなくて、萌え要素の巧みな組み合わせを実現する技術が評価されている、というのが僕の印象です。例えば「原画師」という言葉がありますが、これなんてまさに職人の呼び名なわけで、流行にピッタリ合っているひとがトップに立てるシステムでしょう。突出したオリジナリティが萌えまんがの世界でどこまで必要とされているのかは、すごく疑問です。むろん、職人にもそれぞれ個性はあるんでしょうが、そういうひとにとっては逆に苦しいんじゃないか。

うーん。僕はその神話がもうないと思うんですよ(きっぱり)。作家性の神話がなくなったのは、別にまんがだけの話じゃない。小説だってアートだってそうなんです。それを嘆いてもいいし、面白がってもいいですが、とにかく作家性はますます消えていく方向にある、というのが僕の考えです。しかも、「ユリイカ」の連載でも書きましたが、その趨勢は九〇年代のメディアミックスがどうのこうのというケチな話じゃなくて、「ポストモダン」という大きな社会的な変化と関係している。だから、あらゆるエンターテインメントがこれからはどんどん匿名化していくと思うんですね。

それは変わっちゃったんじゃないですか。でじこはひとつの転回点ですね。あのキャラクターは誰が作ったのか本当によくわからない。原作のクレジットはコゲどんぼさんにあるみたいだけど、普通の原作物とは違いますからね。でも最近のアニメなんてみんな似たようなものじゃないですか。まず設定やキャラクターが匿名的に用意されて、ノベライズはこのひと、コミックがこのひと、アニメはこの監督、ゲームはこの会社、みたいな感じで展開しているわけで、もう作家性で切るのは難しい。作品が誰のものなのか分からないんです。逆にそういうところで作家性を見出そうとすると、やたらとスタッフの名前や業界の裏話に詳しくなるしかないわけですが、そういう見方がどこまで有効なのか疑問ですね。

とはいえ、まんがはやはり個人作業ですから、そんな匿名化の傾向とは別のところで描いていくことは可能だと思います。でもそれは、今後は、ガロ系というか、アート系のマイナー志向で進むほかないような気もします。かつてのまんがは、表現として作家性を保ちながら、かつ大衆的なエンターテインメントでもあるという幸せな状態にあった。でも今はそうじゃないと思います。


ジェンダーとセクシュアリティ、そしてドラッグ的な快感

ジェンダーの違いは難しいです。萌える要素には性差があると思います。ですが基本的には似た構造じゃないかな。女の子が好きなオタク系作品も、萌え要素化されデータベース化されていて、作家性や物語が希薄になっている。例えば『最遊記』はビデオよりもグッズのほうが売れているらしいけど、辛いですよね(笑)。もう最近は作品そのものも必要なくなって、萌え要素とイラストがあればそれだけでどんどん行ける、みたいな感じでしょう。

僕は実は「やおい」についてまだあまり考えてない。だからやおいを除いて、と留保をつけなきゃいけないんだけど、基本的にはそうだと思います。

僕が関心があるのは、やっぱり男性のオタクのセクシュアリティです。オタクはよくロリコンと結びつけられてきたけど、僕は最近、どうも本質は違うのではないかと考えるようになった。オタクの性的嗜好の特徴は、ロリというより、むしろ獣人が出てくるような「けもの系」のエロまんがにいちばんはっきり現れてるんじゃないか。80年代には、オタクは成人女性に相手にされないから少女に走るのだ、という話があったでしょう。でも90年代に入ると、ショタコンとかメイドとか包帯とか両性具有とか、とにかくたくさんの倒錯的な要素が出揃ってきた。その多様さを、成人女性へのコンプレックスだけで説明するのはもはや無理なんですね。

ジャンダーの問題というのは、そもそも、「自分が何者であるか」という問題と密接に関係している。けれども、僕はどうもオタクの欲望というのは、そういうのとまったく関係なく、もっと幼児的で動物的なところで動いている気がするんです。だから、現実世界ではゲイでもペドファイルでもないひとが、平気でショタコンに萌えちゃったりするわけですね。精神科医の斎藤環氏は、こうした切り離しを「二重見当識」と呼んでいます。でも実は、僕はこの言い方にはあまり賛成できない。現実ではノーマル、虚構では倒錯者という使い分けというのが斎藤さんの考えですが、僕はむしろ、オタクは、自分のセクシュアリティとまったく切り離したところで、まんがの性を動物的に消費しているような気がするんですね。現実、虚構の区別じゃなくて。

幼児的な性というものは、身体のすべてが性感帯みたいなもので、いろいろな性感があるという状態です。幼児的な多様な性感を抑圧することによって主体が成立する、というのが精神分析理論の基本的な見解ですが、そう考えるとオタク的な創作物におけるポルノグラフィというのは、ダイレクトに幼児的な性欲を表現しているような感じですね。それでとくにその特徴が現れているのが、猫耳つけて、ふさふさして、やわらかくて、男性器も女性器もあって、しっぽも性器のかわりになって……みたいな、倒錯物の集まりであるけもの系なんじゃないか、というのが僕の考えです。とにかく、気持ちのいい要素ががんがん集まっている。すごい幼児的な状態ですね。

そこには決定的な違いがあります。オタク系文化の特徴は、萌え要素が交換可能で拡張可能なところにある。以前はまったくメイドに関心がなかった人が、あるきっかけで突然メイド萌えになることはザラです。快楽の対象がどんどん広がっていくその感じは、性というより食に似ている。美味しいからなんでも食べるという感じです。ですが性的なフェティシズムでは、ハイヒールフェチは一生ハイヒールが好きで、絶対にハイヒールを手放さないはずです。トラウマとも関係して固定した対象に固執するんです。

これは僕の本来の出発点である哲学とも密接に関連してきます。セクシュアリティの問題は、煎じ詰めれば「自分とは何者であるか」という問題です。でも 幼児的な性欲とは、まさに「自分とは何者であるか」を考えない状態なんです。ですからいろいろなものに萌えることができる。主体的な選択とは結びつかない形で、次から次へと新しい快感が押し寄せてくる。エロマンガやギャルゲーに対するオタクの欲望には、多分にそうした面があると思います。

そうですね。そう考えると、萌え要素の問題は実は、ジェンダーよりドラッグの問題に近いようにも感じます。例えば萌え要素の一つに「触角」がありますが、デザインとしてはあれはただの刎ねた髪でしかない。でもいちど「萌え要素」として登録され意識的に訓練すると、だんだん触角だけでイケるようになる(笑)。これはもう、マウスが迷路で訓練されるのとあんまり変わらないですよ。オタクたちはそんな神経の訓練ばかり自主的にやっている。

僕はやおいはむしろジェンダーで切っていいと思うんです。あれは斉藤さんがおっしゃる「二重見当識」で説明したほうがいいかもしれない。やおい作家には、何かセクシュアリティ上での必然があって、やおいものをやっているひとが多いんじゃないですか。やおいまんがも確かに訓練が必要だけど、それは文脈とか読み方とかの話ですよね。でも萌え系の場合はぜんぜん違う。関心領域そのものが移っていく。

精神分析的に普通に考えれば、ロリコンまんがを読んでいる人は、幼児性愛者であるはずです。ですが、よく言われるように日本ではそうではない。とすれば、これは実はジェンダーの問題ではない、性器的な興奮ではあるが「性」の問題とはちょっと違う、といったほうがすっきりするんですよ。実際にまんがで自慰行為をしている、というのを斉藤さんは強調しますが、それは重要ではないと思います。薬物で快感を得ることだって可能なわけだし。実際、萌え要素の消費は、むしろ薬物の消費に近いんじゃないかなあ。今日はオレ鬱だから、ちょっと『Kanon』やっとくか、みたいな(笑)。

つながってくると思いますよ。ポストモダンとは、人間の動物化が進行する時代でもある。ドラッグカルチャーは60、70年代に始まりましたが、そこで広まったのは、結局「我々は動物なんだ」という認識です。僕らはどうせ動物なんだから、心理的問題は薬物で解決できるだろう、という人間観。同じ価値観がオタク系文化のなかにも、また違ったかたちで流れている。自分が何者か、なんてこといっさい抜きで、動物的欲求にばんばん答えてくれるものばかりを作っている。

だからまあ、いちどオタクになっちゃったやつを立ち直らせるのが難しいのは、彼らはジャンキーだからですよ。声優の声が好きといったって、趣味というより中毒みたいな感じでしょう。そう考えると、アニメグッズって、下敷きに白い粉をつけて売ってるみたいなもんなんです(笑)。


「萌え」化する世界と作家性のゆくえ

このオタク系快感システム(笑)がどれだけ普遍性を持っているか、ということですね。アジアは結構いけそうですよね。

今後の状況を見ないと、これからどうなるかはわかりませんね。日本では結局萌え要素のなかにすべてが解体しつつあるわけですが、アジアではまだ作家性の強い文化が育つのかもしれません。

ただまあ、表現のジャンキー化はハリウッド映画も同じですよ。例えば隕石が落ちる映画だったら、隕石が落ちるシーンをいかに派手に見せるか、それだけになっている。視覚的刺激とテンポの速い展開で幻惑し、物語やメッセージは完全におざなり。ああいうのが世界中で普遍的に受け入れられているのなら、萌え系まんがや萌え系アニメも普遍的になるかもしれない。

ヨーロッパは「動物化」にすごく抵抗しそうなところですからね。アメリカ人とは仲良くやっていけそうだけど。

とにかく、ハリウッドにしろオタクにしろ、あとゲームもそうだけど、そういう中毒的な文化形態が20世紀の半ばに生まれた、ということはとても重要だと思います。その背景にはやはり、人間に対する考え方の大きな変化がある。ですから、日本でも、萌え要素化はどんどん進むだろうというのが僕の考えです。

そもそも「感動」って何でしょうね。かつては読者を感動させるときには、物語やメッセージを使っていた。ですが一方で、そうした感動は、薬を一発キメて今まで見たこともなかったようなビジョンを見ることとどう違うんだ、という考え方もあるわけです。違わないんですよ。これはパンドラの箱ですが、私たちは20世紀の真中にその箱を空けてしまった。まんが家にも、かつてのように物語を考え、絵もしっかり描いて、ちゃんとメッセージを伝えたい、と考えている人は当然いるでしょう。でも他方で、そんな必要はないんじゃないか、絶対に人々が萌える方程式があって、その通りに描いていけばコンスタントに人は「感動」するんじゃないか、という認識も一般化している。

『アフタヌーン』とかね。僕も愛読してます。頑張ってると思います。ただ『アフタヌーン』も『コミックビーム』も、ちょっと「いい雑誌」でしょう。けれど僕が子供のころは、『北斗の拳』のようないまから見ればかなりカルト的なことが、メジャー誌で平気で行われていた。作家性の側にたって雑誌が頑張る、という構図そのものが、事態の深刻さを表してるのかもしれない。

個人的には僕は作家性を応援したい。ただ、客観的にどうかといわれたら、今後作家性はどんどん衰退するだろう、と予言するほかないんですよね。あらゆるジャンルでそうですから。。

暗いというか明るいというか(笑)。動物的な快楽を与える方法はどんどん洗練されているし、それはそれでいいのかもしれない。ただ、作家性に魅力を感じている人からすれば、いささか厳しい状態になっていくでしょうね。

オタクから離れたところにも萌え要素的な発想は現れてきていますね。例えば「ミニモニ。」なんて、でじことあまり変わらないですよ。背が低いというだけで人はイケるのではないか、ということですからね。80年代のおニャン子クラブにもそういう発想の萌芽はありましたが、おニャン子にはまだ物語があった。しかしミニモニ。は人格や物語などは関係なく、ただ身長150センチ以下というデータしかないわけですから。

僕がいっている「データベース型世界」というのは、こういうタイプの認識が支配的になる世界です。今後の世界は、避けようがなくそうなっていく。オタク系文化における萌え要素の蔓延は、その大きな流れの一部にすぎません。

聞き手:吉本松明+ぱふ編集部

2001.8.31公開




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