初出:『読売新聞』日曜版、2000年1月より継続中
紙面の制約から、校正・印刷時にいくらかの修正が入っている場合があります。ここで公開された文章は修正前のものです。またここでは、新聞書評の性格を考え、初出後1週間ほどで原稿を公開しています。
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昨年夏から秋にかけて、通信傍受法の可決をめぐり、激しい議論がマスコミをにぎわせたことはいまだ記憶に新しい。法案の是非はともかく、そのような議論が行われたことには大きな意義があった。というのも私たちの社会は、そこでようやく、情報化がもたらす技術的な問題について法的に――言い替えれば、理系的な問題について文系的に考える必要性を知ったからだ。携帯電話やインターネットで交わされる通信を傍受し、解読し、記録するためにはどのような理論と技術が使われているのか、その知識は一部の専門家しか分からないものだが、もはやその知識なしには、私たちはプライバシーや自由について語ることはできない。そういう時代がやってきたのである。
著者の辻井氏は、長いあいだ学会の先頭に立ち、また、郵政省や警察庁の審議会委員として政府の情報政策に深く関わってきた人物として知られる。それゆえ本書は、一般向けの小さな入門書でありながらも、同時に、以上のような状況をしっかりと見据えた好著になっている。本書の冒頭では、まず、インターネット社会の到来によって、個人情報のありかたがどのように変わったのか、そこでなぜ暗号技術が要になるのかが、分かりやすく解説される。続いて暗号技術の歴史的な展開と暗号理論のエッセンスが紹介され、さらに最終章では、ここ数年間の著者自身による政策関与と、通信傍受法を含めた情報化法制の動きについて、特定の政治的立場を慎重に避けつつも、貴重な見解が示されている。
欲を言えば、評者にはいくらかの注文もないではない。例えば本書では、暗号技術の市民化を支えたハッカー文化の広がりや、その成果であるPGP暗号などについてはほとんど触れられていない。しかしそのような多少の不満があっても、インターネット社会において「通信する」とはどういうことなのか、またそれに国家や社会はどのように対処していくべきなのか、それらの問題を考えるうえで、本書の論述が大きな助けとなることは疑いないだろう。ぜひ読んでもらいたい一冊だ。
初出:2000/1/23
二〇世紀は殺戮の世紀だった。そのなかでも、ナチスによるユダヤ人の大量虐殺(ショアー)は飛び抜けて衝撃的だった。というのもその殺戮は、死者の数だけでなく、まず殺人のシステムにおいて際だっていたからである。そこでは、数百万のユダヤ人たちが、ヨーロッパ中からきわめて効率的に駆り出され、数カ所に集められ、ガス室に送られ、手際よく死体へと変えられていった。そのシステムは、理性的で事務的な多くの人間たち、ドイツの優秀な官僚制抜きにはありえない。
本書は、そのシステムの中枢にいた高級官僚、アドルフ・アイヒマンの有名な裁判を扱っている。彼は戦中、ユダヤ人の強制移送問題を担当していた。戦後は南米に逃亡していたが、六〇年代にイスラエルの情報機関に逮捕され、イスラエルで裁かれ処刑された。裁判は映像で記録されており、昨年、フランスでその記録から作られた映画が公開され話題になった(現在は都内でも公開中)。本書は、その監督による評論と、映画の完全なスクリプトを収めている。
それを一読して分かるのは、アイヒマンが徹底して「凡庸な」「普通の」人間だという衝撃的な事実である。彼は直接には殺人を犯していない。殺人の命令も下していない。ユダヤ人に対する憎しみもない。彼はただ、収容所から遠く離れたオフィスで、移送プランを立て、書類に署名し、命令を伝達していたにすぎない。けれどもその事務作業が、実際には数百万人の命を奪ってしまう。官僚制の危険が、ここには凝縮して示されている。それは、誰にも罪を犯させることなく、巨大な過ちを作り出すシステムなのだ。
アイヒマンの凡庸さを知るには映像が最適だが、スクリプトを読むだけでもかなりを察することができる。また監督の評論は、短いものだが、ショアーの歴史的な位置づけについて的確な議論を提起しており、これもまた読み応えがある。日本でもこの数年、歴史教科書問題や官僚の腐敗はつねにメディアを賑わしてきた。その文脈でもぜひ読んでもらいたい。
初出:2000.3.5
ジャック・デリダは、二〇世紀後半で最も影響力のあった哲学者の一人である。しかしまた、これほど毀誉褒貶が激しい哲学者も珍しい。彼の主張は「脱構築」というキーワードで知られているが、この概念を哲学や人文科学に革命を起こしたものとして讃える人もいれば、逆にただの衒学趣味として一笑に付す人々もいる。
その理由はデリダ自身にもある。彼の書く文章は驚くほど複雑で、ときに翻訳不可能な言葉遊びに満ちている。その難解さに辟易する読者は多い。とりわけ日本では、フランスと学問的風土が異なり、また翻訳も遅れたため、彼の重要性は理解されにくかった。
その状況のなかで、本書の翻訳出版は朗報である。訳文は平易であり、主題は「法」「正義」「ユダヤ人問題」といった近づきやすいものだ。とはいえ啓蒙書ではなく、デリダ独特の思考が高密度に凝縮されている。その特殊なリズムに慣れるには忍耐が必要だが、ひとたび彼とともに歩むことを覚えれば、そこには「考えること」の見慣れぬ風景が広がるだろう。哲学とは、奇矯な専門用語を並べることでも、退屈な人生訓を垂れることでもない。本物の思考がここにはある。
本書のもとになった八九年と九〇年の講演は、発表直後から大きな話題を呼び、デリダ哲学の「倫理的転回」を記すものとして注目された。実際にこの講演ののち、九〇年代を通じてデリダは積極的に社会的、政治的発言を繰り返すようになる。いまや彼は国際的な知識人として研究者を超えた影響力をもっているが、本書はその理論的な基礎としても読めるものだ。
六〇年代に若き哲学者としてデビューしたデリダは、それから長いあいだ、「哲学」「文学」というジャンルの、または「大学」という制度の内側で悪戦苦闘してきた。八〇年代以降、彼はその囲いを実践的に乗り越え、ジャンルと制度の外側で哲学を説き始める。本書に収められた「脱構築は正義である」という宣言は、そのような長い苦闘の後で到来した転回点の貴重な記録であり、ある意味で感動的ですらある。ぜひ手に取ってもらいたい。
初出:2000.4.2
著者の一人ガタリは、日本ではもっぱら思想家・政治活動家として知られている。しかし彼は実際にはすぐれた臨床家であり、一九五〇年代の精神医療改革をリードした存在だった。そしてその経験は、六〇年代の政治活動、七〇年代以降の思想活動に大きな影響を与えている。この論文集は、日本語で、その彼の背景をはじめて包括的に紹介した書物である。
しかし、本書はただそれだけの思想書ではない。副題が述べているように、この著作はまた、「精神療法の現場から」書かれたすぐれて実践的な書物でもある。本書には、ガタリたちの文章に加え、彼が運営していた精神病院の写真、日本語編訳者たちによる論文、そして実際の臨床家に対するインタヴューなども収められており、高度に哲学的な営みと、具体的であるがゆえに困難なひとつひとつの実践とを繋ごうとする、きわめて意欲的な編集方針が採られている。とりわけ三脇康生氏の論文は、なぜガタリが正統的な精神分析から離れねばならなかったのか、その理由をフランスが抱える精神療法の制度的な問題から説明し、さらに日本の問題へと送り返す力作だと思われた。
精神分析や精神医学の言葉はつねに安易に使われている。いまでもこと猟奇犯罪やカルト的事件が起きれば、一部の精神科医たちの言葉が必ずジャーナリズムを賑わすし、またそれが精神医学のイメージを作っている。しかし、心の病とは必ずしもそのように目に見えるものではない。
むしろ社会は、ある特定の心の病から目を逸らし、それを狂気へと押し込め排除することで成立しているのであり、その不可視の部分こそが重要なのだ。私たちが何を狂気と捉え、それをどのように扱っているのか、それを考えるのはまた自分自身について考えることでもある。心理ゲームを楽しむのもいいが、このような著作の頁をめくれば、また別の精神医学に触れることができるだろう。
初出:2000.5.7
宮台真司は1998年から99年にかけて激しい鬱状態に陥った。本書はその危機のあと、復活した宮台の初めての評論集である。前半には読者の身の上相談を、後半には、少年犯罪、少女売春、脳死問題、小林よしのり問題、通信傍受法、天皇主義について、おりおりに書かれた6つの評論を収録している。
宮台の立場は明快である。彼はひとことで言えば、自己決定能力を備えた無数の個人が、互いの異なる生き方を尊重しながらゆるやかに共生する新たな社会を目指しており、悩む読者にはその立場から処方箋を示し、6つの社会問題についても同じ立場から分析を行っている。また彼はその理想を訴えるだけでなく、実現のために必要な教育改革プランも提言しており、その議論にはかなりの説得力がある。宮台をいまだ「ブルセラで有名になった色モノ社会学者」として敬遠している読者がいるとすれば、そのような偏見は捨て、ただちに本書を真面目に読むべきである。個々の結論に異議があるとしても、少なくともそこには、イデオロギーの対立が崩壊しアカデミズムの権威が失墜したあとに現れた、右翼でも左翼でもない新しい知識人の姿が窺えるはずだ。
周知のように190年代の日本は、80年代までの大きな負債を返すため、有形無形の社会資本を急速に破壊してきた。少女売春や少年犯罪もまたその結果だ。しかしいまやその破壊も行き着くところまで行っており、今後はその廃墟の上に新しい社会を「創る」ことが求められている。
93年に現れた宮台は当初は破壊型の言論人であり、不況の混乱に後押しされつつ、戦後日本の虚妄を暴くため好んでタブーに挑戦していた。しかし虚妄もおおかた暴かれてしまったいま、宮台はもはや単に破壊型ではいられない。彼の昨年の鬱はそのような社会変化を反映していた。そして本書には、宮台がそのネガティブな鬱から復活し、ポジティブな新たな責任へと足を踏み入れようとした決意が強く窺える。宮台の言葉が何を創るのか、彼の真価はこれから問われるだろう。
初出:2000.5.21
ドラキュラの名を知らない読者はいないだろう。そのイメージは映画やコミックにいまなお強烈に生き続けている。しかしその起源は何か? 実はその人物は、いまからほぼ百年前にイギリスのある小説家によって生み出された。本書はその原書の翻訳である。
『ドラキュラ』の翻訳はすでに試みられており、それは文庫版で手に入る[注]。しかし本書の翻訳がその試みと大きく異なるのは、ドラキュラの誕生を、単なる娯楽としてではなく、文化研究の対象として学術的に読むという前提で行われていることにある。そのため訳語の選択や固有名詞には細かい注意が払われ、また、巻末には整った注釈と解説が附されていて勉強になる。
例えば解説によれば、ドラキュラのイメージには、一九世紀末のイギリスを覆っていたさまざまな不安が凝縮されている。そのひとつがコレラ恐怖であり、またユダヤ人恐怖である。遠方の国からもたらされ、血液を介することで感染し拡散する吸血鬼の姿は、細菌やウイルスの隠喩であると同時に、また、本国に流入し同化する外国人たちの隠喩でもあった。そして『ドラキュラ』とは、そのウイルス=外国人たちの侵入を、勇敢なイギリス人夫婦が退ける物語にほかならない。
注釈を通してエンターテインメントを読むという経験は、多くの読者にとっては珍しいことかもしれない。しかし、良くできた娯楽小説であればあるほど、それはまた同時に社会的な欲望の鏡にもなっているのであり、それを読み解くためさまざまな知識を使うのは決して悪いことではない。この翻訳はそのような態度の成果である。日本ではいまだに純文学と娯楽小説の境界が出版システム的に維持されているが、本来ならば、この翻訳のような自由な態度が日本の娯楽産業にも向けられるべきだろう。
初出:2000.6.4
注:この文は掲載時には、「『ドラキュラ』の翻訳はすでに何回か試みられており、そのなかには文庫で手に入るものもある」となっていた。しかし、発表直後に唐沢俊一氏のサイト「裏モノ日記」でその記述が誤りとの指摘があり(6月4日の項目)、また著者のほうでもあらためて確認したところ、実際には本書以前に試みられた『ドラキュラ』の翻訳は平井呈一氏の創元推理文庫版(1971年刊)ひとつしかないことが明らかになった。そこで今回は以上のように修正したわけである。唐沢氏の指摘に感謝したい。
これはアメリカ映画をテーマにした座談会形式の本である。しかし「座談会」という言葉でありがちの社交的な会話を予想してはいけない。この本では、きわめて真剣に、それぞれの立場から映画の現在と未来が熱く語られている。
座談会の参加者は三人の映画作家と小説家、映画評論家の五人。そのなかには、先日カンヌで話題になった青山真治氏も含まれている。彼らはすべて30代から40代で、スピルバーグやルーカス以降の、特殊効果が前面に出たここ20年のアメリカ映画に大きな影響を受けてきた。それゆえアメリカ映画の魅力は認めねばならないし、とりわけ1990年代の情報技術は、映像そのもののありかたを本質的に変え始めている。
しかし、彼らはまたシネフィルでもある。「シネフィル」とはひとことで言えば、蓮實重彦氏の映画批評に大きな影響を受け、作家性が強い、非アメリカ的な映画に大きな関心を示す一群の映画好きのことである。そしてシネフィル的な基準では一般に、カメラや編集の巧みさを高く評価するのに対し、イメージが強調された露骨な映像(例えば、怪獣や宇宙船をそのまま映すようなもの)は低く評価される。したがってその基準に照らせば、最近のアメリカ映画は総じて質が低下していると言わざるをえない。
本書の緊張感は、座談会の参加者たちがつねに、矛盾するこの二つの価値観のあいだを往復していることから生じている。つまりはそこでは、映画を見る二つの基準、二つの文化が衝突しているのだ。一方で現在のアメリカ映画は素晴らしいが、他方でそれはもはや、かつてのシネフィル的な視線では見ることができない。その難しさはもしかしたら一種の「新しさ」なのかもしれないが、だとすればその新しさの正体は何か。この本の討議は、その答えに向かって貴重な一歩を踏みだしている。映画に多少とも関心のある読者には、ぜひ読んでもらいたい。
初出:2000.6.18
本書は「おたく」を対象にしている。「おたく」とは周知のように、1980年代に現れた一群の趣味人たちを意味する。彼らは当初、三〇代になってもコミックやアニメ、ゲームに耽溺する幼稚な存在として社会的に非難されていた。
しかし実際は90年代には、彼らの制作物は日本の娯楽産業の根幹を担い、国際市場を席巻するまでに大きく成長している。そのためいまや、おたくたちを抜きにして日本の現代文化を語ることはできない。本書はそのような状況のなかで、おたくの心理と行動を、精神分析医の立場から分析しようとした意欲的な試みである。
本書の独創性は「戦闘美少女」という主題にある。これは著者の造語で、日本の娯楽産業ここ20年ほど目立ってきた、戦う女の子のイメージを指している。おたくたちは、なぜ戦う女の子が好きなのか? 詳しい議論は本書で見ていただきたいが、著者の考えはひとことで言えば、日本社会にはある歪みがあり、そのせいで虚構と現実が同様に強い世界感覚が生まれたのだが、そこで虚構の現実性を支えるために特殊な欲望が必要とされた、それが戦う女の子への欲望なのだ、というものである。
この説明が正しいかどうかはともかく、まずは大胆な仮説を出したことを高く評価したい。知識人がいまだにサブカルチャーへの警戒心を根強くもち、逆に実作者からの警戒心も強いいま、娯楽産業の想像力について徹底して理論的に考えてみる著者の態度はきわめて貴重である。
書評者には疑問もある。本書の分析はおたくたちの閉鎖的集団を前提にしているが、書評者の実感では、むしろここ数年おたくの集団は解体し、「おたく」と「非おたく」の境界にあるような作品や商品が普通に蔓延している。その市場はときに国境も越えており、したがって、おたく的感性を「病理」として捉えるのはすでに無理ではないか。しかし、このような疑問も含め、今後の文化論が本書を避けて通れないことは確かだろう。広く読まれ、議論されるべき本だ。
初出:2000.7.2
SFは奇妙なジャンルである。とくに日本では奇妙だった。というのも、アメリカにほぼ30年遅れて始まった戦後日本のSFは、その結果ジャンルの成熟と解体を急ぎ足で駆け抜けねばならなかったからである。したがって日本ではSFは「空想科学小説」と訳されながらも、誕生まもない1960年代から、すでに、科学知識とは直接に関係のない小説、純文学やミステリや歴史小説との境界にある作品を多く生み出していた。つまり純粋なSFが育つ以前に、すでにジャンル横断的なSFが横行していたのである。
したがってこの国では、SFを読み、書き、愛好する人々は、必然的に「SFの本質は何か」「SF的想像力とは何か」という問いにぶつからざるをえなかった。多くのSF論争がここから華開き、70年代に頂点を迎える。本書にはその論争史を代表する約20編の評論が、60年代のものから90年代のものまで、巽考之の行き届いた解説と年表を付して収められている。よほどの愛好家でなければ辿るのも難しい論争史がこのようにまとめられたことは、まず多くの読書家にとって朗報だろう。編者の努力に敬意を表したい。
同時に本書は、普段SFを読んだこともなく、SFの本質についてなど考えたこともない読者にとっても、一読してもらいたい内容を含んでいる。というのもここに収められた論争の主題は、決してSFという特定ジャンルの問題に限られないからだ。それらの論争はまた、より大きな文明論や世界観、時代認識と繋がっている。
例えば笠井潔による小松左京批判は、全共闘以前と以後の二つの未来観の衝突だと読むことができるし、小谷真理の評論は、すでに九〇年代のサブカルチャー一般の分析に足を踏み入れている。日本SFは最初から奇妙に雑多なジャンルであり、それゆえあらゆる問題意識を抱え込む貪欲さを備えていた。小松左京はかつて「SFは、文学として、ほとんどあらゆるものを対象にしうる」と述べたが、本書はその貪欲さのひとつの軌跡である。
初出:2000.7.19
作者の富沢ひとしは、昨年、『エイリアン9』が注目を浴びたことで広く知られるようになった。女子小学生がエイリアンを退治する不条理な学園世界を、吾妻ひでおを思わせる奇怪な怪物とエロティックな少女デザイン、さらに大友克洋を思わせる洗練されたコマ割りで描ききったその作品は、一見素朴なSFマンガのように読めながら、同時に、マンガ界で培われたさまざまな技法を混淆させ、集約した結果生まれた驚くべき傑作だった。この『ミルク クローゼット』は、その富沢が満を持して発表した最新作である。
物語はまだ始まったばかりであり、紹介はとても難しい。舞台は近未来の日本であり、そこでは子どもたちが日々消えている。消えた子どもたちは「平行世界」に行くが、そこは異形の怪物と機械たちが支配する世界だ。子どもたちの一部はその世界と日常世界を往復しているが、その彼らにはある使命が与えられ、自らも怪物と身体的に融合しつつ、ほかの怪物と戦っている。
このような物語をどう読むかは読者の自由である。完全なファンタジーとして楽しんでもいいし、あるいはまた、「消えた子ども」を自閉した10代の隠喩として、「怪物との戦い」をそのなかで鬱屈した性的葛藤の具象化として社会学的に解釈してみてもいい。おそらく作者はその両方を射程に入れている。
だが、いずれにせよこの作品に大きな力を与えているのは、物語よりもむしろ、作者が怪物の動きや身体変形を描くときの傑出した想像力と、それらをページに配置するときのすぐれた美意識である。そこにはもはや、マンガをアートと見なすべきか否か、といった不毛な議論が入り込む余地はない。本作は単にすぐれたマンガ作品であり、それゆえすぐれたアートである。マンガやSFに抵抗感のある人々も含め、できるだけ多くの読者に、その成果を自分の目で判断してもらいたいと思う。
初出:2000.8.20
「ポストモダニズム」という言葉がある。これは日本では単なる流行語にしかならず、すぐ廃れてしまった。しかしそれはもともとは、一九六〇年代のパリで生まれ、七〇年代から八〇年代にかけてアメリカを中心に栄えた大きな文化的潮流の名前である。その影響は哲学と人文科学に始まり、フェミニズムやマルクス主義のような政治運動、建築や美術のような芸術にまで広く及んだ。本書は、このポストモダニズムの支柱のひとつとして知られた論文集の待望の翻訳である。
本書の内容はタイトルに集約されている。「猿」「女」「サイボーグ」はすべて、西洋近代が前提としてきた人間観を揺るがす存在だ。猿と人間の境界は実は曖昧だし、西洋近代は、女性についてあまり考えないで人間の理論を組み立ててきた。そしてまた近年の生命科学と情報科学の発展は、ヒトゲノムや人工臓器や仮想現実の研究に見られるように、人間と機械の境界を脅かしつつある。
二〇世紀後半の世界は、人間の近代的なの概念を超えている。これはポストモダニズムの中心的な問題意識だが、ハラウェイもまたそこから始まり、古い人間の概念を、猿や女やサイボーグを孕む新しい多様なものに拡張しようと試みてきた。霊長類学者でありフェミニストでもあるという著者の特異な立場が、その試みに独特の説得力を与えている。本書はその試みの中間報告であり、テーマも拡散している。しかしそれでも、彼女の斬新なアイデアは、多くの作家やフェミニストを魅了してきた。
ポストモダニストの文章は一般に難解であり、ハラウェイの文章もまた読みやすいとは言えない。しかし私たちはここにはむしろ、いまだ名づけられていないものを何とか言葉にしようとする、誠実な悪戦苦闘を読むべきだろう。その苦闘ぶりに多少辟易したとしても、思考の核に誠実さがあるかぎり、読者の手元にはやはり本物の何かが残るはずである。
初出:2000.9.10
カルチュラル・スタディーズ(「文化研究」とも訳される)とは、1960年代のイギリスで生まれ、90年代に日本でも紹介され始めた人文科学の一流派である。この言葉は実は、研究者のあいだではすでにかなり知られている。しかし実際には、この数年、ほとんど内容も知らずに批判したり利用したりする派閥的な議論が後をたたず、学生のあいだでは少なからぬ混乱が生じていた。かく言う書評者も、院生時代の90年代、その状態には大いに悩まされた経験がある。
しかしようやく、その本格的な入門書が登場した。しかも二冊。双方ともにコンパクトながら、日本のカルチュラル・スタディーズを代表する研究者が執筆しており、内容は充実している。『入門』のほうは、カルチュラル・スタディーズの発生から展開、将来の展望までを、適切な事例を交えつつ論じており、この新しい学問を貫く精神について凝縮したイメージを与えてくれる。他方で『スタディーズ』のほうは、カルチュラル・スタディーズの概念や方法を、最新の研究動向にも目配りしつつ丁寧に解説しており、巻末の文献案内を含め、若い学生にとって絶好の助けになるだろう。この二冊の登場により、カルチュラル・スタディーズの扱いをめぐる不毛な争いにも終止符が打たれ、これからは少しづつ具体的な成果が出てくるのではないか。そのような期待に駆られる。
そしてこの動きはまた、アカデミズム内での流行の変化に終わるものではない。双方の著者が注意するように、カルチュラル・スタディーズとは、特定の方法や主義というよりもまず、既成の学問や政治運動の枠を超え、「いまここにある現実」を説明し変えていこうとする意志のことである。マルクス主義の弱体化のあと、ここ20年ほど、言論や人文科学は世界との関わりを見失い、極度に抽象化していた。日本でも、90年代にはその弊害が随所で現れている。カルチュラル・スタディーズは、まさにその状況への強い危機感を出発点として生まれた。したがってそこには、「ポストモダン」とも呼ばれるこの混乱した文化状況のなかでいかにして新しい知性を紡ぐのか、安易な懐古趣味やシニシズムに陥ることなくいかにして新しい現実に対峙するのか、その課題の解決へと向かう一歩が記されている。
むろん、その歩みはいまだ頼りない。カルチュラル・スタディーズの概念や方法は、既存のアカデミズムからすればあまりに単純に、逆に一般読者からすればあまりに遠回しだと思われることが多い。しかしそれも、古い学問が新しい現実に対応するための「生みの苦しみ」と考えれば、好意的に見ることができないだろうか。少なくともその苦しみは、古い常識や問題意識を振りかざし、新しい現実(例えば少年犯罪の増加やメディア環境の変化など)を嘆くことしかできない多くの知識人の言動よりは、はるかに誠実なものだ。したがって書評者は、大学関係者にとどまらず、できるだけ多くの読者に、人文科学のこの新たな胎動を知っておいてもらいたいと思う。
最後に付け加えると、この二冊が同時に出版されたことは、読者にとって大きな幸運だった。『入門』の著者たちは、長いあいだアカデミズムの外に身を置いた、いい意味で雑種的な研究者。他方、『スタディーズ』の著者は、東京大学に身を置く生え抜きのアカデミシャン。両者は共同で専門誌も運営しているが、この立場の違いは内容にも強い影響を与えている。しかしこの二冊を読み比べたときに、読者は、対立や齟齬というよりも、むしろカルチュラル・スタディーズの広がりや多様性を実感するはずである。そしてそれはとても重要なことだ。双方の著者が強調するように、カルチュラル・スタディーズとは、決して一冊の入門書に収まりきるものではないのだから。
初出:2000.10.8
大塚英志は、いま、論壇誌でもアニメ誌でも同時に仕事ができる、ほとんど唯一の批評家である。だから、彼の「物語」や「小説」への見方は、文芸誌的な基準からすれば少し変わっている。大塚が考える「物語」には、純文学もコミックもアニメも、さらに民話や都市神話もすべて入っている。そして彼の主張によれば、世間で流通する物語の基礎には単純な構造があり、その組み合わせを学べば、初心者でもかなりのところまで小説やシナリオを書けてしまう。本書はその理論の応用編として書かれており、講義口調で、かなり実践的な内容が詰まっている。
本書の魅力はそこに尽きない。文学作品とサブカルチャーを比較する大塚の問題意識は、アニメ、ミステリ、ライトノベル、ゲームなど、近年力を強めてきたさまざまなエンターテンメントの動きと深く関係している。たとえば彼は「盗作」の重要性について語るが、それは、ここ20年間の日本で、同人誌文化が異様な発達を遂げ、そこで大量の二次創作物(パロディ)が生産され流通し、いまや小説家志望の多くの若者がその二次物を見て物語の構造を学んでいる、という現実があるからである。大塚はその現実を知っており、その状況下でどれだけ良質のものが作れるのかについて、きわめて具体的に考えている。
したがって本書は単なるマニュアル本ではない。むしろこの本は、「いまこの国で小説や物語とは何か」を真剣に考えてみたい読者に、広く読まれるべきだと思う。大塚は露悪的な書き方を好むため、評価がときに分かれる批評家だ。しかし、そんなケレン味を取ってしまえば、大塚の問題意識はきわめて真摯で重要なものである。
初出:2001.1.7
いまから6年前に、ある雑誌に「ろう文化宣言」という短い論文が出版された。ろう者とは単なる障害者ではなく、むしろ、「日本手話」という日本語と異なる言語を使う言語的少数者なのだ、したがって、障害の概念を中心に作られた現在の手話教育や行政には決定的な欠陥があるのだ、と論じるその文章は、一部で大きな話題を呼び、数々の同意や批判が寄せられた。
書評者は障害者行政に詳しくないので、議論の是非は判断できない。しかし、手話は独自の文法と語彙を備えており、決して音声言語の代用品ではない、という主張には強い関心を覚えたことを覚えている。近代哲学の核心には、人間とはまず「話す」ものであり、声に支えられた人間の言語は、霊長類や幼児の身振りとは絶対に異なるという思想が深く刻まれている。しかし「手話は独自の言語である」という主張には、そんな思想を根底から脅かす力がある。
本書には、そのような「手話の思想」を歴史的に辿るうえで欠かせない古典的な論文が七編収められている。手話の重要性は18世紀のフランスで発見された。しかしその後、ろう教育の中心を手話に置くべきか、あるいは発話の訓練に置くべきかで立場が分かれ、19世紀の後半には手話派は衰退してしまった。その歩みは、人間の概念が音声言語を中心に編まれていく思想史的な変化であるとともに、また、ろう者の独自性が抑圧され、忘却されていく政治史・行政史的な変化でもあった。本書が示すそんな歴史は、知と権力の結びつきのひとつの例としても、障害者行政の成立を考える視点としても、読者に多くのことを教えてくれるだろう。収録論文はどれも歴史的な観点で選ばれているが、この訳書は付録として「ろう文化宣言」の著者による書き下ろしを収め、その歴史がろう者の現在と繋がるように配慮している。
初出:2001.1.28
昭和天皇に戦争責任はあったのか。あるとすれば、それは法的責任なのか政治的責任なのか、あるいは道義的責任なのか。誰に対する責任なのか。何に対する責任なのか。いやそもそも、天皇とは責任が問えるような存在なのか。本書は、このようなおそろしく厄介かつ微妙な問題に、いずれも終戦直後に生まれた同世代の3人の論者が真正面から取り組んだ大変な力作である。
加藤は天皇には戦争責任はあると主張し、橋爪はそんなものは問えないと論駁する。竹田は基本的に司会役だが、ときおり在日の立場から議論全体を相対化する。加藤と橋爪の対立は、左翼と右翼、革新と保守の対立ではなく、むしろ現実主義者と本質主義者の対立である。橋爪は断固として天皇の当時の法的地位にこだわり、事実関係を明確にすればすれうほど天皇個人の責任は問えない、彼は彼なりに「ベストの選択」を行ったと言うほかない、と議論する。対して加藤はその議論を一部認めたうえで、しかしなお、多くの日本人がいまなお天皇の戦争責任にこだわるのには感情的な根拠があるはずで、そのしこりは橋爪の理屈では解消されない、そのかぎりで問題は残る、と論じている。書評者としては加藤の現実感覚のほうに頷くことが多かったが、むろん判断は各人各様だろう。ぜひ自分の目と頭で議論を追ってほしい。
昭和天皇の死から10年以上が経ち、太平洋戦争はすでに前世紀の話になった。時がすべてを風化させるのは許されないが、しかし時間的な距離が可能にする語り方もある。本書は何よりもそんな新しい語り方への意志に満ちている。500頁に迫る量の討議、豊富な注と参考資料は、天皇の問題についていちども考えたことのない読者にも十分な手がかりを与えてくれる。あと7年も経てば昭和を知らない世代が成人になるが、そんな人々にこそ手に取ってもらいたいと思った。
初出:2000.2.11