初出:文庫版解説
清涼院流水著、『カーニバル 二輪の草』、講談社文庫
清涼院流水は、二〇世紀末の日本のエンターテインメント業界が生み出した、もっとも異形で、もっとも注目すべき才能のひとりである。英数字とルビが入り乱れ、駄洒落やアナグラムが乱舞し、固有名の深読み(推理?)が次から次へと提示されるこの作家の文章には、何か異様な迫力がある。その情熱はプロットの中心を占めるばかりか、ときに書籍の構造すら規定している。
たとえば、本書の前編にあたる『コズミック』と『ジョーカー』の二部作は、文庫版では、『コズミック 流』『ジョーカー 清』『ジョーカー 涼』『コズミック 水』の四冊に分けられこの順番で出版されている。つまり、第一作が二つのパートに分けられ、それらが第二部をサンドイッチのように挟み込むようにデザインされている。何のことかと思えば、これは、清涼院流水=清涼in流水という駄洒落である。この例に限らず、清涼院の小説は、文体から物語の進行、さらには出版計画まで含め、大部分が、このような語呂合わせを実現するためにこそ作られている。
この特徴は、当初、多くのミステリファンの不興を買う原因となった。それは従来のミステリへの冒涜、あるいは、新本格以来のミステリ・ブームにただ乗りした悪ふざけのように受け取られたからだ。しかし、デビューから六年以上が経過したいまでは明らかなように、その「悪ふざけ」は、決して一時の気の迷いというものではなく、むしろこの作家の本質的な条件をなしている。
清涼院は、密室の数を一二〇〇に、犠牲者の数を一〇億にまで肥大させ、「ジン推理」だの「悟理夢中」だの「神通理気」だのといった駄洒落推理を頻発させる。それは、おそらくは、伝統的なミステリを特徴づけてきた論理性やゲーム性に対する批判といった消極的な動機から生まれたものではない。彼はもっと本気である。清涼院は、そのような荒唐無稽さにしか、物語の中核となるリアリティを感じることができない。彼は、大多数のミステリ作家が「九十九十九」や「ピラミッド・水野」といった名前の登場人物を使ってまともな小説など書けるわけがないと感じるのとまったく同じように、ありふれた固有名、現実的な状況設定、論理的な解決を使ってまともな「大説」(これは清涼院自身が自らの作品に与えている総称である)など書けるわけがないと感じている。それは一種の病あるいは狂気である。
ところでここで注目すべきは、清涼院のその病=狂気が、徹底して、言葉、より正確には、後述するようなキャラクター的でサブカルチャー的な「記号」の水準で展開されているという点である。彼の想像力はいかにも荒唐無稽だが、それは言語を離れた対象物をもたない。上記のような駄洒落が分かりやすい例だが、それにかぎらない。たとえば、九十九十九の「究極の美貌」や鴉城蒼司の「超絶推理」がどのように「究極」で「超絶」なのか、具体的なイメージが湧くように描写されることはほとんどない。そこにあるのは、言葉、というより、「ここは究極ということにしてください」という読者への指示だけなのだ。
この点もまた、当初はミステリファンの不興を買った。しかし、ある機会に清涼院自身が説明しているように、その欠如はむしろ意図的な選択である。彼は、自分の想像力の広がりを、徹底して言葉あるいは記号の世界のなかに閉じこめようとしている。『コズミック』にしても『ジョーカー』にしても、その「解決」は言葉のトリックを離れては成立しない。したがって、この作家の小説は、表面的な印象と異なり、コミック化や映像化に本質的に適さないようにも思われる。
清涼院の想像力は現実から遊離している。そして記号の群れのなかに閉じこめられている。この特徴は、彼がデビューした時代においては異彩を放っている。一九九〇年代はしばしば社会学と心理学の時代と言われる。それは、豊かな消費社会が謳歌され、「記号の戯れ」に覆われた一九八〇年代とは対照的に、長く続く不況のなか、人々が「現実」の手触りばかりを渇望し続けた貧しい時代である。この時期、とりわけ後半の五年間には、純文学とエンターテインメントとを問わず、社会学者や心理学者が喜びそうな小説が数多く書かれた。たとえば、未成年の犯罪者やアダルト・チルドレンや引きこもりを主人公にして、彼らの「リアル」を反映し、読者に「癒し」を与えると喧伝された無数の作品が現れた。というよりも、そのような作品ばかりが出版された。清涼院の作品は、そのような空気から遠く離れている。
にもかかわらず、では清涼院のその独特の記号志向が、まったく時代性や社会性を帯びない突然変異かとすれば、そう捉えるのもまた間違っている。彼の作り上げた世界は確かに現実から遊離しているが、その「現実から遊離している」という点でこそ、それは、私たちの現実、というより、私たちの言葉と現実との関係を鋭敏に映しとっていると言えるからだ。
清涼院の異形さが何を意味するかについては、いまだほとんど批評が現れていない。そのなかで唯一参考になるのは、『物語の体操』や「サブカルチャー文学論」ほか、ここ数年、大塚英志が随所で断片的に行っている清涼院への言及である。彼は本書と同じ講談社文庫版『ジョーカー』にも短い解説を寄せており、そこでは、「『日本語』のリアリズムから意図して乖離し、探偵小説的リアリズムで世界を埋め尽くすことで彼[=清涼院]は新しい小説の形を示そうとしたように思う」と述べている。ここでカギカッコつきで「日本語」と呼ばれているものは、いわゆる純文学を規範とする、自然主義的で私小説的な言文一致体のことである。対して「探偵小説的リアリズム」と呼ばれているものは、別の機会では「まんが・アニメ的リアリズム」とも呼ばれ、一九七〇年代に現れ始めた、キャラクターを中核とするサブカルチャー的な想像力を意味する。
詳しくは大塚自身の著作を見ていただきたいが、自然主義的な日本語は最初から大きな歪みを抱えており、したがってもともとリアリティを喪っている、近年の純文学が力を失い、かわりに「まんが・アニメ的リアリズム」を採用した新種のライトノベルが勃興している背景にはそのような構造がある、というのが彼の歴史認識である。
若い読者がコミックやアニメやミステリに耽溺するのは、何も現実から目を逸らすためだけではない。彼らの多くは、その「現実」を構成する日本語、文学や報道や学問の言説が織りなす自然主義のフレームに決定的な嘘くささを感じ、だからこそキャラクター小説に殺到している。おそらくその原因にはやはり一九九〇年代の不況や社会不安があるが、彼らにおいては、その不安は、いわゆる「リアル」な社会派小説への渇望ではなく、リアリティそのものへの不信として現れたのだ。サブカルチャーの記号に塗り込められ、自然主義的な描写をできるだけ回避して作り上げられている清涼院の作品は、そのような大きな流れの、いまのところもっとも先鋭的な事例として捉えられる。通常の小説が自然主義のリアリティに基づいているとすれば、「流水大説」は記号のリアリティに基づいているとでも整理できるだろう。
清涼院の病=狂気は、ある角度から見ると、きわめて時代的で社会的な病理と捉えることができる。そしてそれはまた、明治以降の日本語の長く複雑な歴史にも連なっている。読者によっては、本書のようなお気楽なファンタジーを何もそこまで深読みしなくても、と感じるかもしれない。その疑問はもっともだ。しかし、それでも言い訳を記しておけば、多少とも批評や評論に手を出したひとならばだれもが痛感するように、もっとも皮相的で浅薄に見える作品や場所にこそ実はもっとも複雑で深刻な問題が宿ってしまう、それが、文学にかぎらず、この国の文化一般の条件なのである。その泥沼のような世界を、美術批評家の椹木野衣は「悪い場所」と名づけた。清涼院はその条件を一身に担っている。
もう少し書き散らしておこう。清涼院の小説は、以上のように、自然主義的「現実」から遠く離れた新しいリアリティへの沈潜、そしてそれを構成する「まんが・アニメ的」記号の群れへの、ほとんど狂気を思わせる執着で特徴づけられる。彼の作品が駄洒落で満ちているのはそのためだ。しかし、より細かく見ると、そこにはもうひとつ重要な特徴が窺える。
清涼院がデビューしたのは一九九六年である。それから六年以上が経過したいま、彼の作品に限らず、伝統的な「現実」から乖離した、記号的なリアリティに基づいて書かれた小説は増殖の一途にある。いまはまだそれらは、ミステリやSFやファンタジーなど、既存のジャンルに寄生するかたちで生産され消費されている。しかし、印刷媒体の外に目を向けてみると、その手法はすでにアニメやゲームのシナリオの大半を満たしているし、インターネットを舞台とした新しい創作・読書経験もその拡大を後押ししている。サブカルチャー的な記号と指標に基づいた想像力が文学の主流になだれ込んでくる日も、もはやそれほど遠くないだろう。
ところでここで興味深いのは、その記号的なリアリティに基づく新しい想像力が、しばしば、一種の「純粋さ」を目指すという事態である。自然主義の足枷から解放され、面倒な情景描写や人物設定をする必要を感じない若い作家たちは、その多くが、読者への刺激を最大かつ最速にするため、サブカルチャー的な記号をできるだけ効率よく配置しようと試み始めている。つまりは、分かりやすい特徴を備えた印象的なキャラクターと、同じく分かりやすい展開を備えた類型的な物語を組み合わせ、そのうえでいかにディテールを積み上げて読者の心を動かすか、という点に作家の関心が移っている。
小説の例ではないが、筆者がここで念頭に置いているのは、Key(麻枝准ほか)が制作した二〇〇〇年のゲーム『AIR』や、新海誠が制作した二〇〇二年のアニメ『ほしのこえ』に集約されている静謐な作品世界である。この両作はともに一〇代と二〇代の大きな支持を集めたが、そこに共通するのは、不必要な情報を慎重に削除し(たとえば、『AIR』の主人公がどのような人生を歩んできたのか、『ほしのこえ』の戦争がどのような組織に担われているのか、そんな情報はどこにも示されない、おそらく裏設定としても存在しない)、いわば「設定ゼロ」の空間を作り上げたうえで、登場人物のあいだで交わされるコミュニケーションとディスコミュニケーションを丹念に描き出す抽象的な手続きである。
自然主義の想像力が言葉と現実の関係を軸として展開したのだとすれば、この新しい「まんが・アニメ的」想像力は、記号と情動の関係を軸として展開する。言葉と現実のあいだに入り込むノイズを慎重に排除し、言葉が忠実に現実を反映しているかのように見える小説こそが自然主義における傑作と呼ばれるのだとすれば、『AIR』と『ほしのこえ』の物語は、記号と情動のあいだに入り込むノイズを慎重に排除し、記号がただちに情動に直結しているかのような世界を作り上げたという点で、新しいリアリズムが向かうべき方向のひとつをはっきりと示している。
しかし、清涼院の小説の印象は、文体的にも設定的にも物語的にも、このような静謐さとはまさに対極に位置する。文章は駄洒落や語呂合わせに満ちあふれている。人物や事件のひとつひとつには膨大な裏設定が組み込まれているらしく、作家自身が攻略本を作ってもらいたいと明言している。登場人物の数はおそろしく多く、物語も荒唐無稽なまでに長い。「カーニバル」シリーズは、ノベルス版では三分冊で原稿用紙四〇〇〇枚を超えている。不必要な情報を排除するどころか、清涼院はむしろ、不必要な情報こそ貪欲に取り込んでいる。
たとえば本書の地の文には、しばしば、二〇〇一年に生じた米国同時多発テロ事件、いわゆる「9・11」の名が見られる。この言及は、言うまでもなく、一九九九年のノベルス版では存在しなかった。しかしそのような新しい「設定」は、とくに現実世界との繋がりを意味するものではない。それはむしろ、ノベルス版の『カーニバル』である事件が起きるのが、一九九六年八月一〇日、つまり「8・10」に設定されていたという偶然に依存している。9・11と8・10の言葉の近さが、そこに何ら実質的な意味はないにもかかわらず、清涼院の連想を喚起し、彼の世界をいちだんと荒唐無稽なものに変えてしまう。このように、彼の小説のなかには、駄洒落や語呂合わせの回路を通って、先行ミステリの引用から歴史や地理の雑学、ワイドショーから国際ニュースまで、あらゆる雑多な情報が虚構化され記号化されて無秩序に侵入している。それは、同じように自然主義的な現実への不信に貫かれ、同じように記号的なリアリティを目指していながら、前述した麻枝や新海が作り上げるものとはまったく異なった世界である。
清涼院が「大説」という名のもとに試みているのは、設定ゼロどころか、いわば「設定無限大」の物語、言い替えれば、徹底して不純で猥雑な世界だ。『AIR』や『ほしのこえ』は、記号と情動のあいだのノイズができるだけ最小になるように、慎重に計算されて作られている。だからそれは、ある順序で、ある方法で鑑賞することが求められる。しかしノイズに満ち満ちた清涼院の作品は、もはやどのような方法で鑑賞しようが知ったことではない。だからこの一連の文庫版では、『コズミック』も『ジョーカー』も『カーニバル』も、それぞれ作品の単位すら分解され、再配置され、ときに大幅に書き替えられて提供される。麻枝や新海は、おそらくは、このように大胆な修正作業は決して行わないだろうし、また行いたいとも思わないだろう。
清涼院は記号的なリアリティを目指しているだけではない。彼はそのなかで不純さと猥雑さを目指している。というよりも、それに取り憑かれている。これはきわめて珍しい才能である。
さきほども記したように、大塚が「まんが・アニメ的リアリズム」と呼んだ新しい想像力をめぐる状況は、ここ五、六年で大きく変貌している。筆者は、編集者との打ち合わせなど非公式な場では、その状況を指すために、杜撰さを承知でときに「上遠野浩平・清涼院流水以降」という括りを使うことがある。一九九八年にデビューし、「ブギーポップ」シリーズを生み出した上遠野もまた、記号的なリアリティをライトノベルに持ち込んだ代表的な作家だからである。
とはいえ、この二人は、資質や作風だけではなく、その立ち位置も大きく異なる。麻枝や新海が代表し、彼らがそのひとつの理想を提示してみせた「純粋」な世界への志向は、ひとりひとりの作者や読者がそれを意識しているかどうかはともかく、広く見れば初期の上遠野の端正な創作手法を継承したものだと考えることができる。しかし、清涼院の荒唐無稽さや不純さや猥雑さがどこでだれによって継承されるのか、その行方はほとんど分からない。少なくとも筆者は、勉強不足のせいかもしれないが、『コズミック』や『カーニバル』に似たような作品をほかに読んだことがない。
上遠野浩平と清涼院流水という二つの焦点をもつ楕円の世界、記号的/アニメ的/データベース的想像力の領域は、いまきわめてアンバランスな状態で成長し安定しつつある。この状態が続くかぎりにおいて、筆者は、ひとりの読者、というよりもひとりの批評家として、清涼院の「大説」を支持し続けるだろう。
2002.4.13公開