初出:『広告』2000年1+2月号、博報堂
「スーパーフラット」は面白い言葉ですね。少なくとも、それは時代を語るキーワードになりうる。例えば、最近のミステリでは平板な人間しか描かれなくなったなんて言い方があるけれど、ここでも「スーパーフラット」は使えそうな気がする。人間的な深みに欠き、プログラムどおりのコミュニケーションしかできない子どもたちが増え、そんな世界に対応するかのように、物語の世界でもゲームやアニメやファンタジーのような「薄っぺら」な作品ばかりが増えている。あるいは、新聞やテレビのようなマスメディアの機能(上昇志向)が衰え、小さいカリスマが林立していること(水平志向)に注目してもいい。この連載で繰り返し言っているように、いまの日本は、社会学的にも異例にペタッとした社会になりつつある。そして、その変化に最も敏感に対応してきたのがオタクたちであることも明らかで、村上さんの美術がそこから出てきたのは象徴的です。
しかし実は、村上さんの美術作品を、そうした時代論、世代論だけ片づけるのはもったいないんですね。「ウルトラマン」で育って、アニメにハマった日本のオタク世代が、ついに芸大を出てアートをやるようになりました、といった村上さん個人の話も面白いけれど、そういう話はすぐ古びちゃう。そうじゃなくて、「スーパーフラット」という彼の言葉を、ちゃんとひとつのコンセプトに育て上げることが大事だと思います。コンセプトというのは、ひとつの世界観です。村上隆が「日本独自のオタク・アート」として流通しているかぎりは、それはコンセプトではない。変わった人が変わったことをやっている、というだけの話で、美術のメインストリームはそことは無関係に流れていってしまう。村上隆は「変わった人」で、そのかぎりで市場でも一定の評価は得るけれど、その奇妙さが飽きられればそれで終わり。パラノ/スキゾという二分法がそういうサイクルを肯定する考え方で、僕は基本的にそれはくだらないと思う、というのは前回[『広告』1999年11+12月号]言いましたね。しかし僕は、スーパーフラットには、もう少し大きな可能性を見ています。
コンセプトにする、とは具体的にどういうことか。それはひとことで言えば、学ぶ対象、学べる対象にするということです。つまり、村上さんの人生やオタクの生態について何も知らなくても、スーパーフラットの考え方はわかる、そういう理解の回路を開いていくということです。これがないと、オタク的な物の見方はいつまでたっても日本特殊の現象であって、そのかぎりでアメリカやヨーロッパで崇められもするけれど、それが広がっていくことはない。けれど僕は、オタク的な感性、スーパーフラット的な感性というのはもっと普遍的なもので、新しい思想や芸術運動に繋がるポテンシャルを秘めたものだと思う。それは原理的には誰でも学べるはずで、ヨーロッパにもアメリカにも輸出できる。逆に彼らは、スーパーフラットというコンセプトから入って、オタク的なアニメやゲームをはじめて理解できるのかもしれない。それは言い替えれば、日本のサブカルチャーがもっている潜在的な力を、モノのかたちだけではなく、考え方・作り方としても輸出していくということ。日本のゲームやキャラクタ文化がいまや世界的なのは『ポケモン』でも立証されているわけで、今後は、その動きをコンセプトによって裏付けすることが求められるでしょう。村上さんの美術は、そういう流れのなかで現れたものです。
ちなみに、「コンセプト」と言うと、何かを裏付けする批評言語のことだと思われがちですが、そうではありません。作品そのもの、商品そのものがコンセプトだ、ということも十分あるわけです。その場合の「コンセプト」とは、単なる言葉ではなく、ひとつの作品や商品のなかに、広い文化的背景の大事なところがグッと凝縮された状態を指します(conceptという言葉はもともと、「孕む conceive」という動詞の名詞形なのです)。というわけで僕にとっては、村上さんの美術作品は、それ自体がコンセプトなのです。オタク的な世界観、ポストモダンの世界観を凝縮した、スーパーフラットというコンセプト。
ならば、村上さんの作品には何が凝縮されているのか。話は多少ややこしくなりますが、ひとつの読みを試みてみます。以下は基本的には、この夏にNTT出版から出る僕の新刊と連動した話で、ややこしいんですが、できるだけ簡単に説明してみましょう。
図1
「大使たち」(一部)
Lacan, Les quatre concepts de la psycanalyse(Seuil)の表紙よりスキャンして縮小を施し引用。
髑髏には目がない。髑髏は一般的には死の象徴だとされますが、むしろ髑髏の不気味さは目がないことだと思います。「不気味なもの」というのは、視覚的なものを撹乱してしまうもののことだ、というのはNTT出版の今度の本に書くはずです。
まず、図1は、ドイツ・ルネサンス期の画家ハンス・ホルバインが描いた有名な絵で、「大使たち」というものです。ジャック・ラカンは、『精神分析の四つの基本概念』という本のなかで、この絵を使って精神分析理論を説明しています。
ラカンの理論の中心は、前号の対談特集でもさんざん強調しましたが、イメージの世界とシンボルの世界をきっちり分けることにあります。イメージの世界というのは、言葉を知るまえの子どもの世界で、鏡のなかの自分と本当の自分がゴチャゴチャっと一体化しちゃう曖昧な世界です。言い替えれば、図と地がまだ未分化な世界ですね。その世界を、図は図として、地は地として分けて、安定させるためにシンボル(言葉)が必要になる、というのがラカンの考えです。言葉を獲得し、社会のなかに登録されること、それを精神分析の用語では「去勢」と言います。これはちょっと変わった言い方ですが、こんなもんだと思って下さい。
では、これがホルバインの絵とどう関係するのでしょうか。ホルバインは16世紀の画家ですが、これは、西洋絵画を特徴づける遠近法が確立してまもない時期です。遠近法とはひとことで言えば、一枚の絵を一つの視点から描き、同様に、見る側にも一つの視点だけを求める技法です。遠近法の絵画は、見る場所が決まっている。ラカンは、これと「去勢」のメカニズムは同じだと考えているんですね。イメージは本当は豊かなものです。一枚の絵のなかに、さまざまな視点から描かれた複数のイメージが乱立していてもいい。たとえば、日本画や中世のイコンがそうですね。けれども、遠近法は絵を見る視線を一本に統合し、ゴチャゴチャしたイメージの世界をパシッと整理してしまう。言い替えれば、遠近法の発明は、絵の世界にシンボル的な考え方(象徴界)が入り込んできたようなものなのです。象徴界=遠近法の発明によって、以後、図を図、地を地、として確定して、くっきりはっきりしたイメージの技法が開けてくる。
遠近法の確立からすでに数世紀を経た私たちは、ふだんあまりそれを「制度」として意識することがありません。けれども、ルネサンス期に生きたホルバインは違いました。このホルバインの絵ですが、ここにはまず、二人の男の肖像が見えます。しかし、それは遠近法的な視線で見た場合です。それと同時に、床のうえに浮いている楕円形がありますね。これは、肖像画の遠近法空間に属していません。これは実は、変形(ルビ:アナモルフォーズ)され描かれた髑髏で、視点をずらして左下から見上げるとかたちが見えてきます。つまり、ここには二つの視線があるわけですね。ひとつは、イメージの多様性を切り捨て、「去勢」されてできあがった遠近法の視線。もうひとつは、その「去勢」を裏切るかのように、ホルバインが奇妙なかたちで絵のなかに滑り込ませた左斜め下からの視線。
ですからラカンは、この髑髏について、「去勢がイメージとして体現されたものだ」と言っています。一つの絵を一つの視線から見る――その不自然さ、不気味さが、絵のなかに戻ってきたのだと。遠近法絵画はすべて、「視線を一つにする」という約束事のうえに成立しています。しかし、その約束事が絵のなかに入ってくることはありません。けれども、ホルバインの「大使たち」では、まさにその約束事が絵のなかに戻ってきている。ラカンの用語で言うと、これは、象徴界が想像界のなかに侵入してきた、となります。
象徴界というのは、「言語」や「社会」のような、シンボル的な約束事の世界です。繰り返しになりますが、ラカン派精神分析では、幼児は「去勢」を経て「象徴界の世界に参入する」ことで、はじめて人間になると考えられています。美術でもそれは、「視線の単一化」を経て「遠近法の世界に参入する」ことで近代絵画が成立する、というように同じ構造が見られました。したがってホルバインの絵は、実は、単に遠近法のメカニズムだけではなく、広く近代社会のメカニズムをコンセプト化してくれた絵だったわけです。遠近法=象徴界の不気味さが、そこでは、斜めに変形された髑髏としてみごとに表現されている。
さて、ではスーパーフラットとは何でしょうか。これはよく言ってることですが、オタク的な図像のひとつの特徴は、カメラアイの欠落、フレームという概念の弱さにあります。図2は典型的なアニメ絵ですが、このようなイラストは、もはや一つの視線で構想されているとはいいがたい。どこかに中心があるのではなく、個々のキャラクターがあたかも異空間にいるようにバラバラにデザインされ、それを組み合わせて配置するように作られている。それを見るオタクもまた、シネフィルのようにカメラ位置やフレーミングに頭を悩ますことはまったくない。ただ個々のキャラクターの絵をバラバラにスキャンし、それぞれの職人的技法の完成度を鑑賞する、という見方になっている。どこから見てもいいものになっているんですね。ちなみに言えば、数年前に『エヴァンゲリオン』がオタク層を超えてヒットした理由のひとつには、庵野秀明が、アニメ作家にはめずらしくカメラアイを意識する作家だったということがあると思います。映画好きでも見れる映像だったんですね。
カメラアイがないというのは、視線が一つに統合されていないということです。だから、視線が複数あると言ってもいい。遠近法がうまくいっていない。「象徴界」というラカン派の言葉を使うなら、象徴界への参入(去勢)があまりうまくいっていない、去勢が機能不全になっている状態です。ルネサンスの風景画が象徴界のうえに成立したとするのなら、アニメ絵の世界は象徴界の機能不全のうえに成立している。この対立を別の言葉で言えば、モダンとポストモダンということになります。視線がひとつしかないモダンの絵画と、視線が複数あるポストモダンのスーパーフラット。
ところでここで注意しておきたいのは、モダンとポストモダンは決して対立するものじゃないということです。ポストモダンはモダンの乗り超えや解体として現れたのではなくて、むしろ、モダンからポストモダンへ、文化の前提が単に横滑りしたと捉えたほうがいい。対立するとすれば、近代には近代の批判が、ポストモダンにはポストモダンの批判が対立しているのです。つまり、アニメ絵的なものを、遠近法絵画の乗り越えとしてもち上げるのも、逆にそこからの堕落として嘆くのも、ともに的外れだということです。その二つは、単に「違う」のだというほかない。
ところで「批判」とは、ものごとの前提を明らかにすることでした。その意味で言うと、ホルバインの「大使たち」は、近代的な絵画の批判になっているわけです。そこでは、遠近法が前提としている視線の問題、去勢の問題が、絵のなかにはっきりと描き込まれているのだから。つまり、ルネサンスの風景が「近代」なのだとしたら、ホルバインの絵は「近代の批判」なわけですね。ならば今度は、ポストモダンの絵画空間に対して似たことが言えないでしょうか。図2のようなアニメ絵がいかにもポストモダンの図像だとして、それが前提とする条件、視線の複数性や去勢の機能不全をあえてテーマにしているような作品はないでしょうか。実は僕は、それが村上隆の作品だと思っているのです。彼の作品は、平面も立体も含めて、ただオタク的アイテムを並べて作られただけではない。むしろ村上さんは、作品を通じて、オタク的な物の見方の条件をあぶり出してしまう――というか、すごくクリアーに抽出するような作業を行っている。一部のオタクたちが村上さんの作品を毛嫌いするのも、そこらへんに原因があると思います。
図2
ことぶきつかさ「アキハバラ電脳組・EDイラスト-B」
CD-ROM『アキハバラでんのうばこ・さん』(キングレコード)より不可逆圧縮と縮小を施して引用。
この絵は僕はかなり気に入っていて、というのも、今回は目の話をしましたが、ここでは一方で女の子たちが目をつぶっていて、他方ではそれを補うかのように、ほかに「にせものの目」がいっぱいあるんですね。座布団やパジャマに水玉模様がいっぱい入っていますが、水玉は目の玉みたいでしょう。
たとえば、図3や図4のような村上隆の絵を見てみますね。「DOB君」がさまざまに変形されて空中(?)を飛んでいるこの作品では、すべてがホルバインの髑髏のような図像で、鑑賞者の視点は定まることができません。つまり、カメラアイが成立しないわけです。
図3
「どこまでも深く・ピンク」(一部)
村上隆著『ふしぎの森のDOB君』(美術出版社)よりスキャンして縮小を施し引用。
ホルバインでは、遠近法的視線の不気味さが、変形された髑髏として表現されていました。髑髏に目がない、というのは見逃せないポイントですね。絵を見る視線がひとつにされてしまったことが、見られる絵のなかでは、逆に変形された目の欠如として表現されている(表1)。これは、遠近法空間に置かれた二人の大使がこちらを見ている、つまり、遠近法空間では目が描かれていることと対比すると、とりわけ意図的だと思われます。では村上さんの絵ではどうでしょうか。スーパーフラット的な世界においては、カメラアイがありません。つまり、絵を見る視線がない、あるいは無数にあるわけです。この状態が、村上さんの絵のなかでは、変形された目が増殖するというかたちで表現されている。
図4
「どこまでも深く・緑」(一部)
村上隆著『ふしぎの森のDOB君』(美術出版社)よりスキャンして縮小を施し引用。
村上さんの絵に「目」のイメージが頻出するのは、そもそも、アニメやマンガが伝統的に、目の描写に異様にこだわってきたからです。目をどのようにデフォルメし、目と顔の比率をどのように設定するかで、キャラクターの印象はほとんど決定されると言ってもいい。しかし、そもそもなぜ、アニメ絵はそれほど「目」にこだわってきたのでしょうか。僕は、その原因は、実はそもそもアニメ絵には「絵を見る目がない」からだと思うのです。絵を見る目がないからこそ、見られる絵のなかで、目のイメージが過激に膨らんでしまう。そういうサイクルの存在が、村上さんの絵にはみごとに表現されています。つまり、村上さんの絵は、ポストモダンの図像をコンセプトに凝縮してしまったようなものなのです。
| 遠近法/ホルバイン | アニメ/村上隆 | |
| 見る視線 | 1つ | なし/複数 |
| 見られる絵 | 目の変形した欠如 | 変形した目の増殖 |
視線の単数性(遠近法)が制度ならば、視線の複数性(オタク的な図像)もまた制度です。そこには一定の作り方があり、一定の見方がある。ただ、前者の制度については長い歴史があるので指摘しやすいのですが、後者の正体についてはまだよく分かられていない。だからこそ、ポストモダンをモダンの崩れたものだ、とする誤解も生じる。そういうなかで、村上さんの絵は、ポストモダンの条件をすごくクリアに見せる、めずらしい仕事だと思います。オタク的な図像についてよく分からないひとも、村上さんの絵を見ると、「ああそうか、彼らの見方はこうか」と理解できるのかもしれない。これが、スーパーフラットというコンセプトです。
その意味で言うと、村上さんはメインもメイン、いまの社会を満たしているポストモダンでオタクな図像の規則にまっこうから取り組んだアーティストですね。ポストモダンといっても、メインはあるんですよ。オタクをアートまで高めた、なんてけちな話じゃない。そして繰り返しますが、日本のゲームやキャラクタ文化が実際にグローバルなものになりつつあり、『マトリックス』に見られるようにオタク文化とハリウッドの共振も目立つようになってきたいま、こういう仕事は大きな価値がある。
スーパーフラットは「スーパー」だからいいですね。ただの平面じゃない。村上さんのアートも、何も平面の平面性にこだわっているわけじゃないでしょう。徹底して平面的であろうとしたのは、むしろアメリカの抽象表現主義ですね。奥行きを消し、平面を平面自体として立ち上がらせる現代美術。単色の色彩がばかでかいキャンバスにバーッと塗られたような作品です。僕はそれも好きですけどね。けれど、村上さんの「フラット」はそういう平面じゃない。 スーパー(super)には、もともと「彼方に」「向こうに」という意味がある。英語のoverと同じです。ですから「スーパーフラット」とは、「平面的な向こう側」という意味ですよ。単に平面的でいろんなものを横並びで配置しているだけだったら、幼稚な絵にしかならない。けれど村上さんの絵には、特殊な向こう側がある。スーパーフラットの図像には、遠近法的な奥行きはないんだけど、別のかたちの彼方があるのです。
そういう点で、僕はスーパーフラットでコンピュータのインターフェイスを思い出します。たとえばフォルダーをクリックすると、パッとウインドウが開きますね。ウインドウが畳み込まれた状態でフォルダーは存在している。でも、実際にスクリーンの向こう側に何か中身があるわけじゃない。ああいう畳み込まれ方は、遠近法が可能にした「奥行き」とはまったく違う。あれこそ、スーパーがフラットの中に畳み込まれた状態じゃないか。アニメの絵も同じですね。イラストの向こう側には何もない。けれども、それは単なるイラストではなくて、フォルダーのアイコンと同じように何かの情報が畳み込まれている。それをクリックして開いていくのが、キャラ萌えと呼ばれる現象です。スーパーフラットな世界にも、いろいろなものが畳み込まれている。だからそれはある意味で空間なんだけど、その空間性はもうパースペクティブを必要としない。スーパーフラットにも彼方はある。でも、どこまでもそれは平面。奥行きをもった向こう側ではない、平面的な向こう側。
(談話・終)
2000.5.20公開、9.16修正(HTMLのみ)