初出:『DiVA』第3号、夏目書房、2002年
情報とは何か。いろいろ調べてみて分かったのだが、この言葉の意味はかなり曖昧だ。それは、事実や統計数値を意味することもあるし(「経済情報」)、その事実をめぐるメッセージや知識を意味することもあるし(「情報がない」)、さらにはその知識を使った概念や意味体系を意味することもある(「情報操作」)。ユネスコが出版した情報管理用語集においても、情報という用語は、「伝達される事実」「事実や概念を表象するために用いるメッセージ」「人間があるデータに割り当てる意味」など、レベルの異なった五種類の内容の羅列で定義されている。
そのなかでもとりわけ興味深いのは、メッセージとその構成要素をともに意味するという両義性である。私たちは日常的に、010101……と二進法で与えられるデータも、そのデータを復号化して得られるメッセージもともに「情報」と呼んでいる。情報理論や情報機器という言葉に含まれる「情報」は前者の意味だし、「この本には有益な情報が含まれていない」などと言うときは後者の意味だ。しかし、考えてみれば、これはいささか奇妙な事態ではないだろうか。
事態を整理するため、少しだけ現代思想の言葉を借りることにしよう。ロマン・ヤコブソンはかつて、言語的なコミュニケーションには、発信者、受信者、メッセージ、コンテクスト、コード(構文的規則)、接触の六つの要素が関与していると述べだ。これはもともとは言語分析のためのものだが、のち記号論や構造主義の前提となった有名な図式だ。しかしこの図式には実は、デジタル技術に支えられた現在のコミュニケーションを分析するに際して、決定的に不十分なところがある。
eメールを考えてみよう。友人某があなたにロシア語のメールを送ってきたとする。ヤコブソンの図式であれば、発信者は某、受信者はあなた、メッセージはメール本文、コンテクストはそれまでに交わしたメールの遣り取りや社会状況、コードはロシア語文法、接触はインターネットということになるだろう。しかし考えればすぐ分かるように、eメールの交換にはもうふたつ重要な要素がある。というのも、実際にそこであなたのコンピュータが受け取るものは、ロシア語で書かれた文章ではなく、0と1の羅列から成る無味乾燥な数列にすぎないからだ。その数列を読解可能な文章としてデスクトップに表示するためには、あなたのメーラとOSがロシア語のフォントや文字セットをサポートしている必要がある。その環境がないのにメールを読もうとしても、文字化けした無意味な記号がスクリーンのうえを流れていくだけだ。
つまり、デジタル技術を介した(すなわち一度は必ず二進数に分解される)現在の言語的コミュニケーションを分析するためには、メッセージがメッセージとして現れる前の段階として、「データ」の「解読」という別の過程を想定せねばならないのである。同じことは音声の再生や画像の閲覧についても言える。デジタル化されたコミュニケーションにおいては、メッセージ(音楽や図画も含む)の単位はそれほど自明ではない。
メッセージとデータは大きく性格が異なる。メッセージには意味がある。したがって解釈する主体(受信者)と解釈の枠組み(コンテクストとコード)が必要とされる。しかしナマのデータにはそのレベルがない。データが意味をもち解釈されるのは、それが復号されたあとの話である。復号化以前のデータは、意味や解釈の手が届かない存在だ。同じ「情報」という言葉を使っていても、このどちらを指すかによって議論の方向は大きく変わってくる。
デジタル技術が普及する以前、つい数十年前までは、私たちの記号的世界は基本的に一枚岩で成立していた。そこでは記号の多くは受け取った瞬間にメッセージとして現れ、したがってそれら記号の群れは、基本的に解釈の対象となるものだった。ヤコブソンの図式はこの世界を前提としている。しかし現在のデジタル化されデスクトップ化された記号的世界は、むしろ、解釈不可能なデータと解釈可能なメッセージが織りなす二層構造で成立しているのだ。そのように考えると、「情報」というひとつの言葉がデータとメッセージという二つの異なった記号的存在を指してしまうという現在の状況は、情報技術革命が進行するこの過渡期にまさに相応しい現象のようにも思えてくる。
しかもこのような混乱はただ学問的に面白いだけではない。それはいまや、さまざまな領域で法的・政治的に厄介な事態を引き起こしつつある。たとえば私が注目している事例のひとつに、関西大学の園田寿教授が紹介しているポルノ規制の問題がある。ネット上で公開されるポルノ画像(サイバーポルノ)の規制は数年前から始まっており、すでに判例もいくつか出ている。現行の刑法175条では猥褻物は「物」とされているため、公開された画像そのものを猥褻物とすることはできない。したがって、現在の判例では、画像情報が記録されたサーバ・コンピュータないしハードディスクを猥褻物とし、猥褻物公然陳列罪の成立を認めることでその矛盾を凌いでいる。ところがここで困るのが、アーカイブ化されたりマスク処理を行われたりすることによって、問題のデータがそのままのかたちでは猥褻物として「見えない」場合だ。見えなければ、常識的に考えて「陳列罪」も成立しようがない。実際の判例はそこを強引な解釈で乗り切っているようだが、その無理を園田教授は鋭く指摘している。
これなどは私には、まさに、現在の社会が、データとメッセージという二つの異なった記号的存在の出現を前に戸惑っている姿そのもののように思われる。紙に印刷されていようと、モニタに映写されていようと、コンピュータ・スクリーンに表示されていようと、それが図画として解釈可能な情報(メッセージ)であるかぎりにおいて、私たちは何とかその猥褻性を問うことができるだろう。しかし、復号化される以前の、0と1の羅列にすぎない情報(データ)に対して猥褻性を問うことには、果たしてどれほどの意味があるのだろうか。私たちは厄介な問題に直面している。
2002.8.31公開