通信傍受法と想像力の問題


初出:『世界』第668号(緊急増刊:ストップ!自自公暴走)、岩波書店、1999年


組織的犯罪対策三法のひとつである「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律」、いわゆる「通信傍受法」あるいは「盗聴法」は、昨年(1998年)の3月13日に国会に提出され、今年の6月1日に衆院本会議を通過、8月12日に参院本会議で可決された。そのあいだこの法案は、同じ第145回通常国会で審議され可決された周辺事態法や国旗国歌法などとともに、小渕内閣の右傾化を示すシンボルと見なされ、おもに左翼勢力からの強い批判に曝されてきた。

まずはじめに、書き手の立場を明確にしておきたい。私は政治学者でも市民運動家でもないが、この法案が可決されたことには常識的に強い疑念を抱いており、いまからでもそれは廃案にすべきだと考えている。というのも私には、今回可決された条文はあまりに多くの問題を抱えていると思われるからだ。

簡単に状況を整理しておこう。この半年間、通信傍受法をめぐっては、さまざまな問題点がさまざまな立場が指摘されてきた。しかしそれは、大きく分ければ、

  1. 憲法第21条(通信の秘密)や同35条(令状主義)との整合性という本質的な疑念
  2. 傍受捜査の濫用を防ぐための厳格化要件の未整備、報道の自由に対する未配慮、電子メールや携帯電話の傍受に必要なデジタル技術への未対応などといった条文的な欠陥、さらに、
  3. 法案を提出した法務省や警察庁の不透明な動きと、その強行採決を支えた政党政治の力学(いわゆる「自自公による国会ハイジャック」)に見られる手続上の不当性

の三点に要約できるように思われる。例えば、おもに人権派の議員が主張したプライバシー侵害の危険は(1)に、日弁連や宮台真司氏が指摘した「立会人」規定の形骸化は(2)に、定数削減問題が引き起こした公明党の突然の変節は(3)に属している。そしてこれらの問題は、それぞれ単独に法案の妥当性を疑わしくしていたばかりか、また、たがいに支えあって状況を悪くもしていた。

例えばよく知られているように、法務省は当初、傍受捜査を必要とする組織的犯罪のひとつとして、オウム真理教のようなカルト集団が引き起こすテロリズムを挙げていた。しかし実際に審議された条文では、「宗教の職にある者」は傍受対象から外されている。これは刑事訴訟法第105条(押収拒絶権)や同149条(証言拒絶権)にならった規定だが、また、公明党の支持を得るための国会対策上の配慮だったとも言われている。その推量がまったくの的外れだったとしても、それが法務省が煽った危機意識といささか矛盾することは疑いない。そしてそのような矛盾とは裏返しに、国会勢力をもたないジャーナリストの傍受禁止特権が、業界団体や識者からの強い要望にもかかわらず、結局条文に盛りこまれなかったことも事実である。これは、上述した(3)の問題(手続上の不当性)が(2)の問題(条文的な欠陥)を支えたひとつの例だと言えるが、このような悪循環はほかにもまた指摘できるだろう。したがって私には、組織的犯罪の将来に対応するため捜査当局の権限強化が必要だという政府の主張をかりにそのまま認めたとしても、今回の法制化があまりに拙速であり、結果として、今後の運用に大きな懸念を残す条文が通ってしまったことは疑いないように思われる。

とはいえ私はこの短い原稿で、通信傍受法が抱えるそれら多数の問題を、あらためて箇条書きにするつもりはない。というのもその点については、この半年のあいだ、識者や専門家たちによる詳しい批判が数多く書かれ、報道され、読まれてきたと思われるからである。読者がそれらの指摘に直接あたることができる以上、私がここで屋上屋を重ねてもあまり有効ではないだろう。それゆえ私はここでは、法案が抱える数ある問題のなかでもひとつだけを取り上げ、さらに視点をひとつずらし、その問題の出現によって明らかになった別のレヴェルの問題、法案そのものではなく、法案をめぐる議論のほうが抱えていた一種の機能不全についても触れておきたいと思う。


私はこの法案の可決前に、ある文章で注1、通信傍受法をめぐる議論では「想像力」が問われていると論じたことがある。私がそこで問題としたのは、ひとことで言えば、この法案が、一方でデジタル通信の傍受を想定しているにもかかわらず、他方でその技術的な条件(デジタル通信を傍受する状況)についてあまりに無配慮なことであり、しかもその矛盾が、技術に対する想像力の貧しさに支えられているということだった。多少繰り返しになってしまうが、まずその論点の確認から始めたい。

例えば可決された通信傍受法は、第12条で「立会人」について規定している。傍受捜査に必ず第三者が「立ち会う」ことを定めたこの規定は、現場の捜査員が令状主義を逸脱し、「傍受すべき通信」以外の通話まで傍受することを防ぐために導入された。ただし現行の条文では、立会人は傍聴内容を聴くことが許されていない。周知のようにこれは前国会では大きな争点となり、法案支持者は条文の規定で十分だと主張し、反対者はより実行力のある制止力、いわゆる「切断権」の法制化が必要だと主張した。切断権とはひとことで言えば、立会人が捜査員が傍受する通話を同時に聴き、必要な場合(内容が傍受すべきものでないと思われた場合)には傍受の中止を求めることができる権利である。確かにそれを立会人に与えなければ、立ち会いが形骸化することは避けられないだろう。したがって私もまた、以下の議論による誤解を避けるためにさきに強調しておけば、このかぎりでは切断権の法制化にまったく賛成である。

しかしここで私が注意を促したいのは、また異なった問題に対してである。切断権の必要性をめぐるその激しい対立は私の考えでは、実は、通信傍受法が抱える別の本質的問題にまったく触れず、逆にそれに触れないことで成立している。というのもその対立は、技術的条件を考慮に入れると、あくまでもアナログ通信の傍受を前提としたものであり、デジタル通信の傍受を前提とすると成立しないものだと思われるからだ。どういうことだろうか。

通信傍受法の位置と目的をはっきりさせておこう。法務省や警察庁はこの法案の必要性を訴えるため、繰り返し「国際的な麻薬組織」の暗躍を強調し、ときにアメリカのデジタル・テレフォニー法やドイツのマルチメディア法を参照してきたことが知られる。そのことからも明らかなように、この法案は決して、国内犯罪の現状から直接に求められたものではない。通信傍受法はむしろ、1990年代に生じた通信環境の急激な変化と、それが可能にした犯罪のグローバル化と匿名化に対応するため必要とされている――少なくとも、そう主張されている。したがってそこで法制化された傍受の標的は、従来のような固定型の電話よりもむしろ、携帯電話や電子メールのような新しい通信メディアにあると思われるし、事実、参院法務委員会の答弁では政府もそれを認めている。ところがこの観点からすると、通信傍受法の目的と可決された条文のあいだには、実は大きな乖離がある。

私たちはここで、最小限の技術的な常識は確認しておかねばならない。1990年代に生じた通信環境の変化においては、デジタル技術が決定的役割を果たしてきた。そしてこの技術は、通信量の拡大を(例えば圧縮技術によって)可能にするだけでなく、通信内容の性質をも大きく変える可能性を秘めている。とりわけここで注意すべきは、デジタル化された通信においてはもはや、発信者と受信者の時間的一致、いわゆる「リアルタイム」の接続が、可能ではあっても必要不可欠ではないことである。

例えば、アナログ技術に基づいた従来のテレビ放送と、最近増えつつあるウェブキャスト(インターネット放送)の質的な違いを考えてみよう。テレビのブラウン管に流れる映像は、周知のように、まさにその見られる瞬間に放送局から送られている。したがってその映像を記録し保存するためには別の装置(ヴィデオ)が必要となるし、その記録のためにも、一度は放送局からの送信をリアルタイムで受信しなければならない。対してウェブキャストで流れる映像は、サーバに記録され保存された動画情報を、視聴者のコンピュータが勝手に読み出し、解読し、再構成することで成立している。つまりそれは本質的に再生メディアなのであり、したがって、視聴者の自由度がアナログ放送に比べて圧倒的に高い。例えばウェブキャストにおいては、もし通信回線の速度が許すのならば、2時間の動画を10分でダウンロードし、その後でゆっくり鑑賞することも原理的に可能である。つまりデジタル技術は、通信される時間の感覚を大きく変えてしまう。そこでは通信はもはや、送られると同時に受けとられるとは限らない。

このような技術的な条件の変化は、必然的に、傍受のあり方にもまた決定的な影響を与えざるをえないと思われる。とりわけ、もし通信傍受法が(法務省が強調したように)組織的犯罪の将来に対応するため制定されたのだとすれば、それはなおさら、デジタル通信の上述のような特徴には敏感でなければならないだろう。しかし可決された条文には、残念ながら、以上のような技術的変化の吟味と、それを法的概念で捉えなおす努力がほとんど窺えない。そのひとつの例が、まさに上述の「立会人」規定である。

前述のように通信傍受法の第12条は、傍受捜査に第三者が「立ち会う」ことを定めている。この表現からも分かるように、そこでは明らかに、捜査員が被疑者の通話をヘッドホンで試し聴き、傍受すべきか否かをその場で判断し、さらにそれを立会人が監視するという光景を前提とされている。言い替えればこの法案は、あらゆる通信が発信されると同時に傍受され、また理解されることを想定している。しかしすでに述べたように、デジタル通信はそもそも送信側と受信側の時間的一致を必要としない。したがってその傍受もまた、時間的一致を前提にすることはできない。例えば電子メールを発信とともに読むのは不可能だし、携帯電話の通話もまたデジタル化されているため、リアルタイムで聴くためにはそれぞれ異なった復号化装置が必要とされる。それゆえデジタル通信の傍受は実際には、ヘッドホンのイメージで想像されるようなリアルタイムの作業(盗聴)ではなく、デジタル化・暗号化された通信データをとりあえず傍受して保存し、内容の理解と分析はあとから行うという時間的に遅れた作業(データベース化と解析)になることが多いと予測される。

そしてデジタル通信がもたらすこの新たな傍受のあり方は、法案が定める立会人規定から実質的な意味を奪い、さらには、それを切断権で強化することもまた不可能にしてしまうと思われる。というのも、通信の記録と内容の理解が同時に行われないのであれば、立会人の役割は必然的に、通信されたデータを記録し複製する作業を眺めるだけ、ひどいときには、その記録を可能にするため行われるシステムの変更作業(例えば、被疑者に宛てられたメールを自動的に複製し、捜査当局に転送するようにメール・サーバの設定を変える作業)を眺めるだけになってしまうはずだからだ。この状況においては立会人は、たとえ切断権が与えられたとしても、それを行使することが原理的にできない。

ここで注意すべきは、立会人や切断権といった法的概念そのものが実は一定の技術的条件を前提としており、したがって、後者が変わればたやすくその実質的な意味を失ってしまうということである。繰り返すが、現行の条文はその危険にまったく鈍感であり、同じような問題はほかにもいくつか抱えている。

もうひとつの例を挙げておこう。例えばこの法案の第13条は、「外国語による通信又は暗号その他その内容を即時に復元することができない方法を用いた通信」について、とりあえず「その全部」を傍受し、のちほど「速やかに、傍受すべき通信に該当するかどうかの判断を行わなければならない」と定めている(該当性判断のための傍受)。これは条文上はあくまでも例外規定だが、携帯電話や電子メールの傍受ではむしろこちらが原則になると思われる。というのも、デジタル化された音声データやテクストデータは、ある意味ですべてが「内容を即時に復元することができない」ものだと言えるし、実際に解読に時間が掛かることも多いからだ。とすればこの場合、捜査当局は被疑者の通信をとりあえずすべて傍受する(複製する)ことが許されるのであり、「傍受すべき通信のみを傍受する」という令状主義は実質的に維持されない。つまりここでは、アナログ通信の傍受を前提とした例外規定が、デジタル通信の傍受を前提としたとき原則へと変わってしまい、その結果、法案の根幹にあるべき理念までが大きく揺らいでいる。

したがって私たちはここで、通信傍受法そのものが必要か否か、治安と自由どちらを選ぶのか、国家主義か人権かといった困難な議論をするまえに、まず、可決された条文の不備を技術的に指摘しておかねばならないように思われる。私が以前「想像力」の欠如として論じたのは、まさにこのような不備をめぐってだった。通信傍受法のおもな目的のひとつは、明らかにデジタル通信の傍受にある。にもかかわらず、その条文はおおむねアナログ通信を前提とした術語で書かれ、しかもその齟齬は、立法者の意図すら超えた結果を引き起こす危険を抱えている。つまり人々はこの法案では、デジタル通信の現実を、むしろアナログ通信の想像力によって捉えている。現実と想像力のこのような齟齬は、政治的な選択以前の欠陥であり、議論の余地なく修正されるべきだと思われる。


しかしこの半年間の議論を振り返ると、私はまた、もうひとつのことを指摘せざるをえない。それは現実と想像力のあいだのその齟齬が、単に通信傍受法の施政者に意識されなかっただけでなく、また同様に、法案反対者を含め、多くの人々にとっても意識されてこなかったという事実である。デジタル通信の問題については、小倉利丸氏に代表されるインターネット上の活動家たちによって数年前から批判が繰り返され注2、専門誌の特集やインターネットでの告知も進められていたことが知られる。しかしその問題意識は、「立会人」規定やプライバシー侵害の問題などに比べあまり注目されず、マスコミ報道や国会審議の場で主題的に取り上げられることは少なかった。そしてその状況は私の印象では、法案成立の直前まで続いている。

確かに参院での審議が始まった7月以降は、携帯電話や電子メールの傍受についてもマスコミが積極的に取り上げはじめ、それを受けて、技術的な問題への野党議員の関心もまた急速に高まっていったと言える。例えば8月4日には、前述の小倉氏が参院の法務委員会に招かれている。しかし結局のところ、その変化もやはり遅すぎた。小倉氏が法務委員会に招かれた8日後には、通信傍受法はすでに可決されている。つまりこの法案をめぐっては、デジタル通信の傍受状況が社会的な広い関心を集めたことはなかったし、それが集まりはじめたときにはもう審議は終わってしまったように思われる。そして法案がひとたび可決されたあとは、社会的な関心はふたたび離れてしまった。

例えば社会的な関心のその低さは、法務省がホームページで行っている広報活動のひとつ、「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律案Q&A」の内容に端的に現れているだろう。インターネット利用者に向けられた広報活動であるにもかかわらず、そこに用意された「Q&A」はどれもデジタル通信の傍受状況に触れていない(1999年9月現在)。そこではいまだに、「捜査官は、傍受の対象となる電話等を継続的に聞くのですか」という問いに対して、「捜査機関は、[……]断片的に通信の内容を聴くことが許されます」という答えが用意されている。しかし繰り返すが、電子メールはそもそも聴くものではない。電子メールの傍受とはテクストデータの複製と転送を意味するのであり、「断片的に聴く」ことなどありえない。それゆえこのような仮想問答は実際には、新たな傍受の実態から人々の目を逸らす役割しか果たさない。そしてこれは裏返せば、人々の目がそこに向いていないからこそ、法務省のこのような広報が通用しているということでもある。

以上のような状況は、ここまで強調してきたような想像力の貧しさが、決して通信傍受法の条文を規定しただけでなく、また同時に、この半年間、その条文をめぐる議論をも強く規定してきたし、またいまも規定し続けていることを意味している。その入り組んだ状況を私はここで、簡単に、この法案とその周辺において、デジタル通信の現実は二度消されたのだと要約しておこう。

例えば前述のように、切断権の必要性をめぐる対立においては、賛成派も反対派もともに同じ前提(アナログ通信の傍受)を共有し、同じ現実(デジタル通信の傍受)に盲目だった。したがってそこでは、ヘッドホンをもはや必要としない新たな傍受状況の出現という現実が、一度は条文そのものにおいて(立会人規定)、つぎにその条文をめぐる議論において(切断権の導入)、二度否認されたのだと言うことができる。つまりそこでは、技術的な条件(デジタル通信の傍受)が忘れられたうえで政治的な対立(新保守と人権派の対立)が仮構され、その対立が今度は技術的な条件の複雑さを覆い隠し、さらに徹底的にその複雑さを忘れさせるという二重の過程が働いていたのだ。私がこの小論で、通信傍受法が抱える無数の欠陥のなかからとりわけデジタル技術の問題を取り上げ、繰り返し想像力と現実の関係に注意を促してきたのは、そこに、このような入り組んだ現実否認のメカニズムが窺えたからである。

したがって私たちはここから、本来ならば、そのメカニズムの詳しい社会学的・政治学的分析に移るべきなのだと思われる。しかしそれは本稿の目的ではないし、また私にはその力もない。それゆえ私はここで最後、そのメカニズムを凝縮したひとつの例を挙げ、簡単にその働きに触れることで満足しておきたいと思う。その例とは、通信傍受法を表すため広く使われてきたもうひとつの名前、「盗聴法」という通称のことだ。

盗聴法という通称は、よく知られているように、「通信傍受」という中立的表現を「盗聴」という強い言葉に置き換えて作られたものである。それは通信傍受法の危険を強調するため、おもに法案反対者たちによって積極的に用いられてきたし、またいまも用いられている。しかしそれは私には、この半年間、そのような役割と同時にまた、いままで述べてきたような技術的問題を巧みに覆い隠す役割も果たしているように思われた。どういうことだろうか。

第一に、「盗聴」には「聴くこと」が含まれている。しかしいままで繰り返してきたように、デジタル通信の傍受はもはや聴くこと(リアルタイムの理解)を必要としない。したがって「盗聴」という表現は、それを使うひと自身に対しても、通信傍受法の実質を見失わせる危険がある。例えば朝日新聞は、通信傍受法に原則反対する立場から、5月下旬に「権力が聴いている」と題する連載記事を載せている。このタイトルは実は記事の方向を大きく規定しており、そこでは必然的にヘッドホンによる盗聴が傍受捜査のモデルと考えられ、デジタル通信の傍受はほとんど扱われなかった。

例えば連載記事のひとつは、傍受記録を録音した「磁気テープ」の保管に懸念を表している。これそのものは正当な懸念だが、やはりデジタル通信の傍受では事情がまったく異なる。例えば電子メールの傍受、すなわち複製を考えた場合、データが収められたフロッピーディスクやハードディスクそのものの保管は中心的な問題にならない。というのもデジタル情報はたやすく複製・転送され、しかも痕跡を残さないのが特徴なのであり(だからこそメールの傍受もできる)、オリジナルがいくら厳重に保管されていても、決してデータそのもの機密性を保証しないからだ。したがってむしろそこで必要なのは、記録媒体そのものの保管条件の厳格化ではなく、傍受したデータを複製し、必要な処置を加えてデータベース化し、さらにそれを転送してほかのデータベースと結合させること(いわゆるデータ結合)を防ぐための、まったく別のタイプの厳格化要件になるだろう。しかし盗聴という隠喩を用いているかぎり、ひとはそれについて考える必要がない。

第二に、「盗聴」には「盗むこと」が含まれている。このイメージは私には、通信傍受法をめぐる議論をきわめて情緒的なものに変え、生産的な指摘を妨げてきたように思われる。例えばその情緒性はとりわけ、法案反対者たちが、1986年の緒方事件を根拠に捜査当局の信頼性を疑うときに利用されていた。「盗むこと」の隠喩は、権力と市民をつねに対立させる戦後民主主義的な図式、「盗む権力」と「盗まれる市民」という対照と相性がよく、だからこそ多くの反対者に愛用されてきたと言える。

しかしこのような情緒性は、反対運動を広げるための戦略として認めたとしても、やはり好ましいものではない。確かに私の考えでも、可決された条文では傍受捜査の濫用の余地が大きく残されている。しかしそれは決して、捜査当局が倫理的に腐敗しているからではないし、またそのように言う必要もない。第13条を例に述べたように、可決された条文の術語はデジタル通信の傍受をまったく考慮に入れておらず、結果的に、捜査当局の腐敗以前に条文のレヴェルで令状主義が揺るがされている。このような欠陥は冷静に解決されるべきものであり、警察組織がそもそも信用できるのか否か、国家がそもそも信用できるかの否かといった、答えのない本質論とは決して混同すべきでない。しかし、「盗むこと」の隠喩はそのような本質論とこそ親和性が高く、結果的に技術的な条件の複雑さから人々の目を逸らせてきたように思われる。つまり上の要約にならって言えば、盗聴法の隠喩は実はこの半年間、それを用いる人々の意図とは無関係に、まず「聴く」によって技術的な現実を覆い隠し、つぎに「盗む」によってそれもまた覆い隠す、現実否認の装置として機能してきてしまったのである。


注1
1999年7月中旬に共同通信社で配信された短い論文。

注2
例えば、小倉氏の主催するウェブページ「ネットワーク反監視プロジェクト」や、東北大学(現・岩手県立大学助手)の山根信二氏が運営するウェブページを参照。

2000.4.15公開、7.27修正(HTMLのみ)





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